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祇王と京都|白拍子のプライド【シタ妻・サレ妻】京都を生きた女性シリーズ④

古代(大和~平安時代)

『白拍子』とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて人気を博した歌舞。女性が白い直垂に烏帽子姿で白鞘巻の刀を差した姿から白拍子と呼ばれ、その美しい姿は時の権力者を魅了しました。

『平家物語』で語られる白拍子の祇王は、平清盛の寵愛を受けると同時に平家と同様、人生の諸行無常を体験することになります。 

♦♦この記事で訪れた祇王ゆかりのスポット♦♦

  • 祇王寺
  • 長講寺
  • 西八条第跡
  • 若一神社
ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

この記事を書いた人:はし ともえ

イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。

祇王とは 

小泉八雲の『怪談』で平家物語を語った琵琶法師・耳なし芳一(赤間神宮/山口県)

祇王は平家物語『第一巻・祇王』に登場。その美貌と卓越した白拍子のために17歳にして平清盛の愛妾となります。清盛の寵愛は深く、妹の『祇女』と母の『刀自』にも家を用意し、毎月百石の米と百巻の金銭を与えたほどです。 

当然、祇王は都中の白拍子たちから羨望と嫉妬のまなざしを受ける事となりました。 

祇王と仏御前 

清盛の寵愛を受けて3年が過ぎたころ、都で新たに『仏御前』という白拍子が大人気を博します。加賀の国出身で美しく、まだ16歳の少女。白拍子としての人気・実力ともに自信満々の仏御前は、今を時めく平清盛から召されたことがないことを残念に思っていました。 

若さと行動力、そして自らの白拍子に絶対の自信がある仏御前は「天下人に召さてこそ!」と思いたち、清盛の屋敷へ出向きます。 

しかし、呼んだ覚えのない一般庶民の仏御前を清盛は追い返そうとします。権力者の仕打ちにやむなく仏御前が帰りかけたその時、祇王が「白拍子を所望しなくともせめて目通りだけでも」と助け舟を出しました。 

ライター<br>はし ともえ
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祇王は清盛に出会う前の自分を思い出し、仏御前の心中を慮ったのでしょう。

寵愛する祇王の手前、清盛はしぶしぶ仏御前に目通りすることになりました。

清盛は仏御前に『今様』その次に『舞』を披露するように命じます。もちろん仏御前の今様・舞は美しく、清盛は先ほどの態度とは打って変わって仏御前を気に入り、屋敷に召し抱えると言い出しました。 

それを聞いた仏御前はとりなしてくれた祇王に顔向けできません。「お呼びたていただければいつでも参上いたします」と言ってその場から去ろうとしますが清盛は許しません。清盛は「祇王がいるからか。ならば祇王には暇を出す」と言って祇王をあっさり捨てたのです。 

諸行無常のなかで 

諸行無常の鐘(寂光院/京都大原)

聡明な祇王はいつかこうなるのではと案じていたようです。どれほど清盛の寵愛を受けていると周りに言われても自分は市井の者。清盛からすれば金銭で買った妾にすぎません。

白拍子の自分は清盛に愛されてるのではなく、権力者の力を誇示するための存在なのだという自覚があったのでしょう。 

だから、愛情を仏御前に奪われたのではなく『清盛にとってはお気に入りの白拍子が挿げ替わっただけなのだ』と自分に言い聞かせます。それでも、3年過ごした部屋を片付け、屋敷を出る時には涙がこぼれます。 

萌出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき』 

(春に草木が芽吹くように仏御前が清盛に寵愛されても、所詮は同じ野辺の草(白拍子)。秋に なって果てるように飽きられないで終わることがあろうか) 

一首ふと思いつき、襖に書き残して祇王は屋敷を去っていきました。 

翌年の春、貧しい生活を送っていた祇王に清盛から「参上して仏御前を慰めよ」と文が届くようになります。清盛には二度と会わないと心に決めていた祇王だったので、返事をしないでいると清盛の使者から「清盛公にも考えがある」と脅されるようになりました。 

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とうとう祇王は清盛の脅しを聞いた祇王の母・刀自の説得もあって、泣く泣く清盛の屋敷に参上しました。

祇王に対面した清盛は「仏御前のために今様を歌い舞を舞え」と命じます。清盛は自分の我儘を周囲に見せつけ貫き通すことで己の力を示したいだけだと覚悟し、泣くのをこらえて白拍子を披露する祇王。周囲にいた者も祇王を不憫に思い、涙に耐えない様子でした。 

涙を呑んで退出し、家に帰ると祇王は「またこのような憂き目に会うのなら身を投げましょう」と自害を口にしてしまいます。それを聞いた妹の祇女も「我もともに身を投げん」と姉の後を追う覚悟でいます。 

傷心の姉妹に母・刀自は「お前たちが身を投げるのなら我も身を投げる。母に身を投げさせるのは五逆罪になりましょう」といって二人の自害を押しとどめました。この、身を張った母の愛情が祇王を救うことになるのです。 

祇王が得た幸せ 

祇王寺(京都・嵯峨野)

自害を思いとどまり、祇王・祇女・刀自の3人は剃髪し尼となって京都・嵯峨の山里に庵を結びます。静かな日々を送り、季節が過ぎゆき七夕の夕暮れ。三人の住む庵の竹戸を叩く人影がありました。それは、同じく剃髪した仏御前でした。 

「夢かうつつか」と驚く祇王に仏御前はいきさつを告げます。「清盛の命令に逆らえず屋敷に留まっていましたが、あなた様が仏の道に励んでいることを知り羨望を募らせました。あなた様が暇を出され、私が屋敷に留め置かれることが恥ずかしくとても辛かったのです。」 

祇王の残した歌の『いづれか秋に あはで果つべき』が、いずれ自分の身に起こるのでは、という不安に苛まれていたことも包み隠さず伝えました。仏御前は思いつめ清盛の屋敷を抜け出し、そして尼になったのです。 

姿を変えて涙を流し「日ごろの罪をお許しください」と言う仏御前に、祇王は「日ごろのうらみは消えました。ともに往生を願いましょう」と仏御前を庵に受け入れました。 

ライター<br>はし ともえ
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はし ともえ

4人は庵に籠り念仏する穏やかな日々を過ごし、4人とも往生を遂げたそうです。

祇王にまつわる京都のスポット

祇王が尼となって暮らした祇王寺 

祇王・祇女・刀自・仏御前が庵を結んだ尼寺。祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、大覚寺の楠玉諦師や地元有志が再建を計画。さらに元京都府知事の北垣国道から別荘の寄付を受け、明治 28 年『往生院 祇王寺』として再建されました。 

以後は真言宗大覚寺派の寺院となり大本山大覚寺の塔頭寺院になっています。 

緑が美しい苔庭 

参道を草庵へ歩いていくと苔で覆われた『苔庭』を見ることができます。祇王寺の『苔庭』 はその美しさで有名。初夏の新緑や梅雨の雨上がり、晩秋の紅葉など四季折々の風景を楽し むことができます。 

祇王の歌碑 

『萌出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき』 

祇王が清盛のもとを去る時に襖に書き付けた歌の歌碑。祇王のこの歌には、苦しんだ仏御前に仏門へ入る決意をさせるほどの説得力を感じます。 

茅葺屋根の草庵 

かやぶき屋根の草庵の仏間には祇王・祇女・刀自・仏御前と共に、ご本尊の大日如来と平清盛の木像が安置されています。祇王・祇女の像は水晶の目が印象的な鎌倉末期の作品。 

また、控えの間に入ると大きな吉野窓が旅の疲れを癒してくれます。光の入り方や季節によって様々な表情を見せてくれるため、別名は『虹の窓』。 

祇王たちが眠る宝篋印塔 

草庵の近くには祇王・祇女・刀自のお墓と平清盛の供養塔が静かに佇んでいます。いずれも鎌倉時代に作られたものです。

*祇王寺

所在地:京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32

アクセス:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅、京福電鉄「嵐山」駅より徒歩約25分

祇王の記録が残る長講堂 

六条通り富小路にある長講堂は、最大の実力を持った天皇の一人、後白河法皇の院御所『六条西洞院殿』の持仏堂が由来の寺院。 

正式名を『法華長講弥陀三昧堂』といい、法華経を永遠に讃し阿弥陀仏を念じて三昧強に入る道場という意味を持ちます。 

後白河法皇ゆかりの本尊・阿弥陀三尊像と後白河法皇坐像は重要文化財に指定されています。 

後白河法皇が記した『過去現在牒』 

過去現在牒とは後白河法皇が晩年にゆかりのある人々の名前を記し、仏前に供え救いを求めた帳面。法皇直筆のもので神武天皇から安徳天皇に至る歴代天皇と共に、祇王・祇女・刀自・仏御前の名前が4人ひとまとめに書いてあります。 

その他、歴史に名を残さない者の名もありますが、この過去帳は『平家物語』にも記されており歴史上の重要な資料とされています。 

*長講堂

所在地:京都市下京区富小路通六条下る本塩竈町本塩竈町529

アクセス:京阪本線「清水五条」駅より徒歩約7分

祇王が清盛に見初められた西八条第跡 

西八条第跡は平清盛の邸宅だけでなく平家一門の邸宅群があった場所。『平家物語』の清盛と祇王の物語の舞台であり、当時は八条亭とも呼ばれ敷地は6町以上を占めたと言われています。 

1183年、平家一門が木曽義仲によって平安京を追われた折、平家自らが火をつけて焼失。現在では梅小路公園となっており、近年、京都水族館が設立され市民の憩いの場となっています。

西八条第跡の石碑が建つ梅小路公園 

市電広場・いのちの森・朱雀の庭・京都水族館・VIVA スクエア京都など、広大な敷地に見どころがいくつも点在し、どの年齢層にも人気の公園!なお、朱雀の庭には『西八条第跡の石碑』が建っています。 

*梅小路公園

所在地:京都市下京区観喜寺町56-3

アクセス:JR嵯峨野線「梅小路京都西」駅下車すぐ

平清盛ゆかりの若一神社

平清盛が熊野詣をした折、「土中に隠れたるご神体を世に出しお祀りせよ」と御神託を授かりました。清盛は帰京し邸内を探索。東方の築山が夜光を放っているので3尺程掘ってみたところ、若一皇子のご神体が現れたので社殿を造営し鎮守したそうです。 

また、清盛がご神体に出世を願ったところ翌年に太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神様として尊崇されています。 

*若一神社

所在地:京都市下京区七条御所ノ内本町98

アクセス:JR京都線「西大路」駅より徒歩約5分

祇王と京都まとめ 

祇王ほどの白拍子なら、清盛でなくとも他の貴族たちから身請け話はあったはずです。しかし、それは祇王が自ら断ったのでしょう。なぜなら『身請け』である限り、金銭で買われては捨てられるという地獄の繰り返しになってしまうことを祇王が悟ったからです。 

祇王は清盛に暇を出された時に、清盛の寵愛は本物の愛情ではなく『一番人気の白拍子』を手に入れた愛着にすぎないと気づいたはずです。愛情とは母・刀自が身を張って祇王の自害を止めたように、相手を思いやる気持ちが伴うものです。 

ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

愛情とは飽きたから簡単に相手を捨てて傷つける無責任な愛着ではありません。 

また仏御前も白拍子同士の競争のなかでプライドばかりが高くなり、清盛に召されることで自身の承認欲求は満たされると思っていたのでしょう。しかし、召された後は清盛にいつ捨てられるのだろうと、不安に思う毎日を手に入れただけでした。 

ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

芸能人の『周囲からどう評価されるだろう』という他者比較から生まれるプライドは、その地位を追われた時に本人の心を救ってくれることはありません。

祇王の白拍子のプライドは、母と妹のおかげで自身を尊ぶ自尊心へと成長し、安らぎを与えてくれる仏門の道を選択するに至ったのかもしれません。 

白拍子の祇王ではなく祇王そのものを大切に思う家族の愛情こそが、清盛に捨てられ傷つい た心を救い、他者を受け入れる心の強さを実らせたのでしょう。

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