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和泉式部と京都|“浮かれ女”の寂寥【シタ妻・サレ妻】京都を生きた女性シリーズ①

古代(大和~平安時代)

浮かれ女”とは藤原道長が恋多き歌人・和泉式部を揶揄したことに由来します。 

橘道貞という夫がありながら天皇の二人の皇子と身分違いの恋をした和泉式部は、その不倫が原因で夫と離婚。さらに再婚相手の藤原保昌とも関係が破綻してしまいます。 

魅力的で和歌の才能あふれることで男性の注目を浴び続けた和泉式部。しかし最終的に誰とも添い遂げることができなかった彼女は、本当に恋に浮かれていたのでしょうか? 

♦♦この記事で訪れた和泉式部ゆかりのスポット♦♦

  • 貴船神社
  • 祇園祭(保昌山)
  • 誓願寺
  • 誠心院
ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

この記事を書いた人:はし ともえ

イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。

和泉式部とは 

和泉式部は正確な生没年は不明ですが藤原一族全盛の平安時代中期の歌人中古三十六歌仙・女房三十六歌仙・百人一首の歌人の一人でもあります。 

和泉式部が生み出した作品の数々

和泉式部が詠んだ和歌は『和泉式部正集』『和泉式部続集』などにまとめられており、『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』などの勅撰和歌集にも多く収められています。 

また、自身と敦道親王の恋愛を描いた『和泉式部日記』は、時代を超えて文学作品としての評価が高く、和泉式部の才能は枚挙にいとまがありません。 

恋多き和泉式部の生涯

幼少期は御許丸(おもとまる)と呼ばれていましたが、結婚を機に女房名を、夫の橘道貞の任国・ 和泉国と父親の大江雅致の官名・式部丞を合わせた『和泉式部』としました。 

橘道貞と結婚し子供にも恵まれた順風満帆の和泉式部は、とても魅力的で和歌の才能もあることから、良くも悪くも早々に宮中の男性陣の注目を集めます。 

そして、とうとう人気が災いし、999年〜1000年頃に良好と思われた夫婦関係が一転。和泉式部と冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との不倫が発覚します。 当然、父の雅致からは勘当、夫の道貞からは最終的に離婚されてしまいました。 

為尊親王はその約2年後、1002年26歳で早世します。独りぼっちになったと悲しみに暮れた和泉式部でしたが翌年、今度は既に正妃がいる弟の敦道親王との不倫に走ってしまいます。 

ライター<br>はし ともえ
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はし ともえ

情熱的な恋愛模様を赤裸々に綴り、約150首の贈答歌で構成される『和泉式部日記』は、敦道親王の邸に迎えられるまでの10か月間を描いたものです。 

元気を取り戻した和泉式部でしたが、敦道親王との狂おしい時間も束の間、1007年に敦道親王は兄同様に早世しました。 

二度の死別に打ちひしがれ、頼るところを無くした和泉式部でしたが、藤原道長にその才能を評価され、道長の娘・彰子に女房として出仕することになります。 

その後、道長に仕えていた藤原保昌と再婚。夫の任地である丹後の国へ同道し、宮中を去りました。

和泉式部が復縁を願った貴船神社 

夫に同道して宮廷を去った和泉式部ですが、敦道親王を忘れられない葛藤から夫婦仲が上手くいかず、思い悩んだ時期がありました。そこで、夫婦良縁を願い参詣したのが縁結びで有名な貴船神社です。貴船神社は貴船川下流から本宮・結社・奥宮があります。

水の神さまと絵馬発祥の本宮

永承元年(1046年)に水害で本宮(現在の奥宮)が被災したため、現在の本宮に遷座されました。そのため和泉式部が参詣したのは現在の奥宮になります。 

御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。奥宮の闇龗神(くらおかみのかみ)と同じ水の神様で、京都の水源を守る神として歴代朝廷からも大切にされ、信仰が深まったと言われています。 

また、貴船神社は絵馬発祥の神社としても有名です。古の時代、朝廷は日照りが続くと降雨を祈願し『黒馬』を、長雨が続けば止雨を願って『白馬』を奉納しました。 

しかし、平安時代に入ってからは生きた馬を奉納するのではなく板に馬の絵を描いた『板立馬』を 奉納するようになり、これが現在の『絵馬』の原型となりました。 

和泉式部が参詣したことで、貴船神社は恋愛成就の神様として広く知られることになりましたが、 今日では、恋愛のみならず入学・就職などあらゆる人間関係の縁結びにご利益があるとされてい ます。 

ライター<br>はし ともえ
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はし ともえ

結びたい縁をお持ちの方が貴船神社に参詣する際は、本宮で願い事を結び文に書いて、結社の 結び処にしっかり結んで祈願することをおすすめします。 縁結びを願わない方も本宮に参詣したら、ちょっと運試しで『水占みくじ』はいかがでしょうか。御神水にみくじ箋を浮かべるユニークなおみくじなので観光客にも大人気です。 

和泉式部の歌碑がある結社

本宮で購入し願い事を書いた結び文を結び処にしっかり結んだら、境内にある和泉式部が読んだ和歌が刻まれている歌碑を眺めてみてください。 

物思へば 沢の蛍も我が身より あくがれいずる 魂かとぞ見る

(物思いにふけっていると、沢の蛍が私の体から出た魂のように見える)

歌碑にはこのように記されています。 

貴船神社に参詣した和泉式部は、貴船川に浮かぶ蛍をみて自身の心情を和歌に託し夫婦円満 を祈願しました。すると次のような返歌があったと伝えられています。 

『奥山に たぎりて落つる 滝つ瀬の たまちるばかり 物な思ひそ』

(このような山奥で激しく落ちる滝の瀬に砕け散る水のように魂を砕くほど物思いに沈んではいけない)

この返歌は男性の声で詠まれたと言われているため貴船明神が返したものとされています。しかし、和泉式部にとっては、死してなお自分の身を案じてくれているであろう『敦道親王が返してくれた和歌』だったのではないでしょうか? 

和泉式部が願いを込めた思ひ川橋 

奥宮参道の入口に架かる橋を『思ひ川橋』と言い、その下の流れを『思ひ川』と言います。貴船神社の本宮がまだ奥宮にあった頃は、貴船神社に参詣する際、禊をして心身を清めたことから『御物忌川』と呼ばれていました。 

それが和泉式部が夫婦仲を祈願したことから、いつしか『思ひ川』と呼ばれるようになりました。 『思ひ川橋』を渡るといよいよ奥宮の参道に入ります。 

奥宮には夫婦円満を表す連理の杉も

奥宮には『連理の杉』と言われる杉と楓が和合した非常に珍しい御神木があります。『連理』とは別々の木が重なり木目が同じになっているという意味で、そこから転じて夫婦円満を表すたとえにも使われるようになりました。 

また本殿の隣には『船形石』があります。『貴船神社創建伝説』によると、神武天皇の皇母・玉依姫命は浪速(今の大阪)より水源の地を求め、黄船で鴨川から貴船川のこの地に至りました。その折、黄船を人目に触れないように小石で積み囲んだと伝えられています。 

そして、本殿の真下には『龍穴』と呼ばれる大きな穴があります。日本三大龍穴の1つと言われ、神聖で非常に強い力を噴出するパワースポットとして注目されています。なお、龍穴は直接人の目で見ることは禁じられており、地下深くにあるため見ることはできません。 

奥宮の御祭神は本宮と同じ高龗神ですが闇龗神も祀られていると伝えられています。 高龗神は龍神で、新しいことを始める際に物事が上手くいくようにお力添えをして下さるのだそうです。 

ライター<br>はし ともえ
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はし ともえ

和泉式部も貴船神社に参詣した甲斐があり、ほどなくして夫婦仲は円満になったのだとか。しかし和泉式部と藤原保昌はその後、破綻したという説が濃厚です。 

*貴船神社

所在地:京都市左京区鞍馬貴船町180

アクセス:叡山電車「貴船口」駅より京都バス33番

和泉式部ゆかりの祇園祭・保昌山 

京都の祇園祭に巡行される34基の山鉾の中に、藤原保昌と和泉式部の馴れ初めが由来である保昌山があります。保昌山のご神体はもちろん藤原保昌です。

宮中で和泉式部を見初めた保昌は結婚を願い恋文を送り続けました。そんな保昌に、敦道親王への思いがまだ心にくすぶっていた和泉式部は「御所の紫宸殿の紅梅を手折って持ってきて欲しい」と難題を突き付けます。 

夜陰に紛れ警固の武士に矢を射掛けられながらも紅梅を持ち帰った藤原保昌は、和泉式部との恋を成就させました。このエピソードは謡曲『花盗人』や保昌山の旧称『花盗人山』の由来となったそうです。

ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

保昌山では祇園祭の宵山の期間中に、故事にちなんだ護符・お守り・ちまきなどかわいらしい 『保昌山グッズ』が販売されます。特に縁結びのお守りは大人気なので、是非お早めに保昌山に お立ち寄りください! 

*保昌山保存会会所

所在地:京都市下京区燈籠町574

アクセス:地下鉄烏丸線「四条」駅より徒歩約5分

和泉式部が出家した誓願寺

新京極通には和泉式部にゆかりのある寺院が2つあり、その一つが誓願寺です。 

『誓願寺縁起』に、和泉式部は娘を亡くした苦しみから救われる道を求め、播磨の書写山・円教寺を訪ねて性空上人に教えを請い、さらに誓願寺に入るという内容の記述があります。最終的に和泉式部は本尊の阿弥陀如来に帰依して出家。専意法尼という戒名を授かりました。 

和泉式部が帰依した誓願寺の本尊『阿弥陀如来』は天智天皇の勅願により、父子仏師の賢問子・芥子国が制作したものです。しかし、残念ながら賢問子・芥子国が制作した仏像は焼失してしまい、現在安置されているのは石清水八幡宮から移安されてきた阿弥陀如来です。 

現在の阿弥陀如来は木造の座像で、鎌倉時代から南北朝時代の作とみられています。 

*誓願寺

所在地:京都市中京区桜之町453

アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前」駅より徒歩約5分

和泉式部が住職を務めた誠心院 

新京極通にはもう1つ和泉式部にゆかりのある寺院・誠心院(せいしんいん)があります。 古くは「じょうしんいん」と呼ばれていました。 

和泉式部は敦道親王の死後、藤原道長の娘・彰子に仕えていました。1027年に彰子の勧めで藤原道長が和泉式部のために法成寺・東北院の一角に小御堂を建立して『東北院誠心院』と名付け、これが誠心院の起こりとされています。 

和泉式部はこの寺院で初代住職を務めました。本堂には藤原道長が建立した本尊阿弥陀如来像や、和泉式部像・藤原道長像が祀られ、境内には『和泉式部誠心院専意法尼の墓所・歌碑』も安置されています。 

ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

初代住職の和泉式部にちなみ、知恵授け・恋授けにご利益がある『鈴成り輪』があるので是非、 回してみてください。一回廻せば般若心経を一読した功徳が得られるそうです。

*誠心院

所在地:京都市中京区桜之町453

アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前」駅より徒歩約8分

まとめ 

現代でも芸能人やスポーツ選手のように、見た目が整っていて才能のある人物は、常に人々の脚光を浴びますが、それと同時に不倫という蟻地獄に足を踏み入れてしまいがちです。 

はし ともえ
はし ともえ

これは、家庭外で大勢の人にチヤホヤされることに慣れてしまい、家庭内でもチヤホヤされない と『自分は愛されていない・大事に思われていない』と勘違いし不満に感じやすいためです。特に女性の不倫は自身が寂しいときに不倫に走りやすい傾向があります。 

美しく才能のある和泉式部と言えども、家庭に入れば夫の橘道貞にとっては『妻』です。 妻としての役割を夫に要求されるでしょうし、妻(家族)に対しての扱いは受けても『推し』のような特別扱いを受けられるはずはありません。 

「一歩外に出れば私はこんなにモテる!みんなが私を称賛する!なのに夫は私の魅力も才能も分かってくれない!」 

そういった不満が寂しさへと変化し、最初の為尊親王との不倫を引き起こしてしまったのではないでしょうか。敦道親王との不倫も為尊親王の死後すぐに起きていることから、和泉式部の不倫は寂しさが元凶だと言えるでしょう。 

ライター<br>はしともえ
ライター
はしともえ

とはいえ不倫は不倫。和泉式部は自らの不倫でたくさんの人を傷つけてしまっています。 

晩年、藤原保昌と破綻して独りぼっちになった和泉式部が、誠心院で初代住職になった背景には、自分が傷つけてしまった人たちに対する贖罪の思いもあったように思われてなりません。

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