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紫式部と京都|源氏物語執筆の地と足跡を辿る

古代(大和~平安時代)

源氏物語と言えば、海外でも有名な世界最古の長編恋愛物語。英語・中国語・フランス語・イタリア・ドイツ語など30以上の多様な言語に翻訳され、世界中で読み継がれています。日本では現代語訳された書籍・映画・アニメ・漫画を通じて幅広い年代に支持され、千年の間、衰えぬ人気を誇っています。

物語は平安時代の宮中を舞台に主人公・光源氏の恋愛・生涯を中心として展開していくのですが、これは作者の生涯とも密接な関わりがあるようなのです。

そこで今回は、日本文学史上の最高傑作のひとつ。日本のみならず多くの人々に愛され続けている、不朽の名作「源氏物語」の作者・紫式部の生涯とゆかりの地をご紹介いたします。

♦♦この記事で訪れた紫式部ゆかりのスポット♦♦

  • 大徳寺
  • 石山寺(滋賀県大津市)
  • 蘆山寺
  • 上賀茂神社
  • 下鴨神社
  • 雲林院
  • 紫式部墓所
ライター<br>はし ともえ
ライター
はし ともえ

この記事を書いた人:はし ともえ

イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラで夫に不倫された、サレ妻の悩み相談を受付中。

紫式部とは

源氏物語の作者・紫式部(天元元年ごろ〜長和3年ごろ)は、日本の平安時代中期の物語作者で中古三十六歌仙の一人

女房名を「紫式部」といい本名は未詳です。藤原宣孝の妻となり娘・賢子をもうけます。夫と死別し寡婦時代に源氏物語を書き始め、藤原道長に認められて一条天皇の中宮・彰子の教育係を務めました。

彰子に仕えるかたわら「源氏物語」の執筆を続け、他にも皇子誕生・女房評を書いた「紫式部日記」、歌集「紫式部集」を執筆。現代では1966年、日本人として初めてユネスコの「偉人年祭表」に登録されました。

紫式部の生まれは京都・紫野

紫式部の実名や正確な生没年は分かっていませんが、生誕地は現在の京都・紫野「大徳寺・真珠庵」とされています。平安時代には雲林院と言われていました。

この大徳寺(雲林院)で紫式部の母(藤原為信の娘・藤原為時の妻)は紫式部の弟を出産します。しかし大変な難産で、紫式部が2~3歳ごろに命を落としました。紫式部もここで父親と共に母の安産を祈祷していた可能性があり、早世した母を想い、晩年をここで過ごしたという説もあります。

「源氏物語」には母親を知らない登場人物が多く存在します。主人公の光源氏・夕霧・紫の上・大君・中の君‥‥‥。「母がいない」「母を知らない」という式部の寂しさが、源氏物語の根底に流れているように思えてなりません。

現在も真珠庵には紫式部の産湯に使われたと伝わる井戸があり、飲用に利用できるほどきれいな湧水が枯れることなく湧き出しています。

*大徳寺

所在地:京都市北区紫野大徳寺町53

アクセス:京都市バス「大徳寺前」下車すぐ

紫式部が源氏物語を執筆した地

紫式部が「源氏物語」を執筆した場所として知られているのが石山寺蘆山寺です。

源氏物語始まりの地・滋賀県の石山寺

2つの寺のうち、石山寺は源氏物語の始まりの地として有名です。紫式部はお仕えしていた中宮・彰子の要望を受け新しい物語を執筆するため、石山寺に7日間、逗留しました。

その時に琵琶湖の湖面に映った十五夜の月を眺めて、須磨巻の一節を書き起こしました。

「今宵は十五夜になりけり」

これが「源氏物語」の始まりだったと言われています。

*石山寺

所在地:滋賀県大津市石山寺1丁目1-1

アクセス:京阪電車「石山寺」駅より徒歩10分

紫式部の邸宅・京都の蘆山寺

もう一方の蘆山寺は京都御苑の東側に位置し、かつて紫式部の邸宅があった場所とされています。紫式部はこの邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子を育て、生涯の大部分を過ごしました。

1001年、宮中の人間関係に疲れ、病にかかった夫と死別。寡婦となった後、同じくこの邸宅で1001年ごろから1006年ごろの間に「源氏物語」の大半を書いたと言われています。

*蘆山寺

所在地:京都市上京区北之辺町397

アクセス:京阪電車 「出町柳」or 「神宮丸太町」駅より 徒歩約15分

公式サイト:https://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/

宮中への出仕と源氏物語の連載

才能を藤原道長に見込まれ、中宮・彰子の教育係として宮中に出仕するようになってからも「源氏物語」の執筆は続き人気を博しました

作中では当時の宮中の描写が多くあり、平安貴族たちのきらびやかな生活をうかがい知ることができます。作中のモデルにも事欠かなかったのではないでしょうか?

しかし一方で、宮中の難しい人間関係や病の様子もリアルに描写されています。あえて宮中の暗い部分を書くことで、夫との死別をも創作のエネルギーに昇華させ、執筆に情熱を注いだことが容易に想像できます。

紫式部ゆかりの縁結びの神様

京都には、紫式部にゆかりのある縁結びの神社が2つあるので、ご紹介します。

上賀茂神社の片岡社

上賀茂神社は皇族・貴族・武家など様々な階級の人々に参拝されてきた神社で、紫式部もそのうちの一人です。紫式部は参拝の折に触れて以下のように詠んでいます。

ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしずくに 立ちやぬれまし

意味は『ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待ちわびる間は、この片岡の森の梢の下に立って朝露の雫に濡れていましょう』。

この将来の結婚相手として有力視されている人物が中宮・彰子の父で、紫式部を宮中に出仕させた藤原道長です。なぜ藤原道長なのかと言いますと「紫式部日記」のなかに以下のような記述があるからです。

  • 藤原道長が紫式部に「源氏物語」の執筆、及び冊子づくりに必要な紙・筆・墨といった道具類を援助していたこと
  • 紫式部が藤原道長を「お姿のなんと立派なこと」「なんと素晴らしい」と称えていること

紫式部が藤原道長を非常に尊敬していたことがうかがえます。

ちなみに、藤原道長には4人の妾がいましたが、その中の一人は藤原彰子の女房「大納言の君」でした。この大納言の君とはどなたのことでしょうね?

*上賀茂神社

所在地:京都市北区上賀茂本山339

アクセス:京都市バス「上賀茂神社前」下車すぐ

下鴨神社の相生社

下鴨神社は源氏物語とは縁が深く、第9帖『葵』の巻で描かれている場面が有名です。葵祭の最中に光源氏を一目見ようと、正室・葵の牛車と側室・六条の御息所の牛車が場所の取り合いをして争う場面が描写されています。

また、第12帖『須磨』の巻で光源氏が下鴨神社を訪れて以下のように詠んでいます。

憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば糺すの 神にまかせて

意味は『辛い世を離れる今、自分の噂の成り行きは糺すの神に任せよう』となり、都を離れる心情を糺の杜に託す場面に謡われています。

現在でも、古の都人が心を寄せた糺の森には「相生社」という縁結びの神が祀られ、良縁を願う参拝者が絶えません。

お社の左側には縁結びの信仰を深めてきたご神木「連理の賢木(れんりのさかき)」があります。『神様の縁結びの力があまりにも強すぎたために地面から生えてきた木が途中で一本になってしまった』と伝えられています。

さらに相生社が親しまれる理由は源氏物語をモチーフにしたおみくじ。とてもユニークで「源氏物語」54帖の巻名が付き、作中で読まれた和歌をもとに運勢を占います。男性用は衣冠束帯、女性用は十二単をかたどったものになっているのも好評です。

*下鴨神社

所在地:京都市左京区下鴨泉川町59

アクセス:京阪電車「出町柳駅」より徒歩12分

公式サイト:https://www.shimogamo-jinja.or.jp/

晩年の紫式部と墓所

紫式部の晩年と、彼女が眠る地についても見てみましょう。

紫式部が晩年を過ごした雲林院

紫式部の晩年は、はっきりとした記録はありませんが、宮中を去り雲林院の「白豪院」で過ごしたと考えられています。

雲林院は、

  • 紫式部の母親が早世した場所
  • 自身の生誕の地
  • 墓所がある

などの理由から晩年を過ごした場所とされているようです。

*雲林院

所在地:京都市北区紫野雲林院町23

アクセス:京都市バス「大徳寺前」下車、徒歩約3分

小野篁のそばで眠る紫式部

墓所は雲林院の「白豪院」の南にあたり、現在の京都市北区、堀川北大路の交差点の近く。墓所を眺めてすぐに気がつくことですが、紫式部の墓所の隣には平安時代の歌人「小野篁」の墓が隣接しています。

約200年近い時の隔たりのある二人の墓が隣接しているのを不思議に思われるのではないでしょうか?これにはもちろん平安時代ならではのワケがあります。

紫式部が亡くなったとき「紫式部は亡くなった後に地獄へ落ちた」と噂されるようになりました。これは当時としては「源氏物語」はかなり生々しい恋愛関係を描いているので、読んだ人々の心を乱し惑わせたとされたためです。

そこで、紫式部の支持者たちは「紫式部を地獄から救いたい」と思い立ち、紫式部の墓を小野篁の墓に隣接しました。なぜなら小野篁はただの歌人ではなく、地獄の閻魔大王の補佐役をしていたという伝説の持ち主だったからです。

「源氏物語」のファンは小野篁のとりなしで紫式部を地獄から救ってもらおうと考えたというわけです。当時の人々の発想が微笑ましいと感じてしまうのは私が現代人だからでしょうか?

*紫式部墓所

所在地:京都市北区紫野西御所田町

アクセス:京都市バス「堀川北大路」下車、徒歩1分

まとめ

今回の記事では、紫式部と代表作「源氏物語」にゆかりのある京都の名所をご紹介いたしました。紫式部の切ない恋心や、身内を失った悲しみを通じて平安時代の「もののあはれ」を感じて頂けたのなら幸いです。

千年の時を超えても「源氏物語」が根強い人気を誇るのは、紫式部の生涯の悲しみや情熱が作中に織り込まれているからにほかなりません。

いままでと同様に、これからの千年先にも紫式部と「源氏物語」が永く語り継がれることを願ってやみません。

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