京都の中心街である河原町に流れている高瀬川。
繁華街の賑やかさに疲弊しがちな私は、避難するようにして川のほとりに涼みにいくことがあります。

実はこちらの高瀬川が、人工的に作られた運河であることをご存知ですか?
高瀬川が開削されたのは1611年。
江戸時代の初期に、「角倉了以」(すみのくらりょうい)という商人が取り行いました。

この時代の京都といえば、戦国時代に焼き払われた京都の都市復興に取り掛かった豊臣秀吉から、その方針を受け継いだ徳川家康が二条城を建築した頃でした(1603年)。
家康は政治の本拠地を江戸に置きつつ、京都は江戸幕府直轄の都市として捉えていました。京都所司代や町奉行を配置するほか、社寺復興にもかなりの金額を投資して努めていたそうですから、相当京都という都市を重要視していたのです。
そんな時代に角倉了以が行った「高瀬川の開削」は、京都を大きく発展させた超一大プロジェクトでした。
今回の記事では、「高瀬川開削によって京都はどのように発展していったのか」「角倉了以とはどのような人物だったのか」という点について、名所を巡りつつ解説していきます。
♦♦この記事で訪れた角倉了以ゆかりのスポット♦♦
- 保津川
- 高瀬川一之船入
- 和食・懐石 がんこ 高瀬川二条苑(角倉了以別邸跡)
- 立誠ガーデンヒューリック京都(角倉了以顕彰碑)

hotarus
この記事を書いた人:hotarus
大学時代から京都在住の30代。YouTubeチャンネル「hotarusの京都暮らし」も運営中。カフェと寺社仏閣巡りがマイブームです。
角倉了以とは

角倉了以は1554年、京都で「医師家系」として有名だった「吉田家」の4代目として生まれます。
吉田家は足利家の時代から代々幕府に仕え、医学の発展に貢献してきました。そしてもう一つの家業であった土倉業(金融業)を営むことで、「京の三長者」と称されるほどの莫大な財力を有していたのです。
朱印船貿易が転機に
了以は医者には就かず、実業家としての道を歩んでいきます。算術や地理を学んだ彼は、実家の土倉業を継ぐこととなりますが、転機が訪れたのは50歳頃でした。
1603年、江戸幕府が始まった頃に、幕府の命を受けて安南(ベドナム)との貿易を開始することになります。いわゆる朱印船貿易です。角倉家は朱印船を送り、銀や銅、刀剣、硫黄などを輸出し、生糸や絹織物などを輸入することで莫大な利益を得ました。
京都の水運事業
1604年、了以は水運事業に目をつけます。生まれ育った京都嵯峨を流れる大堰川(保津川)の開削をしようと考えます。保津川を開削することによって、丹波地域の豊富な木材や食材を効率よく運送することが出来るようになるのでは、という狙いがあったのです。
水運には高瀬舟が導入されました。高瀬舟は主に浅瀬を運航するため底を浅く、急流を下れるように船底を平たくしている特徴があるため、保津川の浅瀬部分を通りやすいと考えたのでしょう。朱印船の港を視察した帰りに立ち寄った岡山県の美作国で、高瀬舟を利用した水運事業が行われている様子を見たことが要因であるという説があります。
保津川の開削
1606年、幕府から正式に開削の許可を得ます。保津川が流れる「保津峡」という渓谷は巨大な岩がむき出しとなっているため大変困難な工事だったようですが、なんとたったの5ヶ月ほどで工事を完了させたのでした。
保津川の開削工事の成功によって幕府からの信頼を得た了以は、駿河の富士川、岐阜の天竜川の開削工事を依頼されますが、こちらは条件が急流が激しすぎるほか、川沿いの地域住民から反対の声が上がる等の理由で工事は断念されました。
高瀬川の開削
そして1611年。ついに高瀬川の開削に着手し、3年ほどの長い年月をかけて工事を成功させます。
高瀬川の開削によって、京都の洛中である二条から伏見の港、さらにそこから淀川を経由して大阪までの舟運ルートが築かれました。経済の中心地である大阪と京都を結びつけることに見事成功した訳です。
丹波と京都、そして大阪の水運ルートが確立することで、生活基盤の安定と最先端技術の導入が可能となり、京都は大きく発展していくこととなりました。
角倉了以が初めて開削した大堰川(保津川)

角倉了以が初めて開削を行った保津川です。
戦後にはトラックなど陸路での運送手段が発達したため、高瀬舟による水運は姿を消しましたが、現在では「保津川下り」という形でアクティビティ化することで文化が残っています。
年間を通して、約30万人もの観光客が、保津川下りを楽しんでいるそうです。
四季の美しさも感じられて、楽しそうですね。
京都の貿易を大きく変革した高瀬川「一之舟入」

角倉了以が開削した高瀬川です。
川を運行している高瀬舟の荷下ろしする場所を「舟入」といいます。舟入は全部で9カ所あって、こちらの「一之舟入」が出発点となります。

当時使われていた高瀬舟が再現されています。「伏見の清酒」と書かれた酒樽が積んでありますね。南方の伏見から、こちらの木屋町二条までの長距離を渡ってきた訳です。


*高瀬川一之船入
所在地:京都市中京区木屋町通二条下ル西側一之船入町
アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前」駅より徒歩5分
一之舟入付近にある角倉氏邸址

一之舟入のすぐ近くに、「角倉氏邸址」の石碑があります。
高瀬川における水運事業の拠点として、この辺り一帯に邸宅を構えたのです。

近くに「別邸跡」の石碑もあります。
明治時代には「山縣有朋」の別荘となり、現在は「がんこ高瀬川二条苑」へと姿を変えました。
広々とした庭園は今なお残存しており、食席から眺めることができるそうです。
「がんこグループ」は他にも文化遺産となるお屋敷での店舗展開を行っているそうで、
例えば京都鉄道会社の創設者である「田中源太郎」の生家である「楽々荘」や、
大阪北摂地区の土木建築家である「中井梅太郎」の邸宅を店舗として運営しています。
壮大な歴史を感じながらのお食事なんて、豪勢の極みですね。
いつか訪れたいものです。


*和食・懐石 がんこ 高瀬川二条苑
所在地:京都市中京区木屋町通二条下ル東生洲町484-6
アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前」駅より徒歩5分
角倉了以 翁顕彰碑(おうけんしょうひ)

高瀬川に沿って少し南に下ると、「角倉了以顕彰碑」があります。
顕彰碑とは、個人の(著名でない)功績や善行などをたたえて、広く世間に知らせる目的で作られているものらしいです。
こちらの顕彰碑を見た方が少しでも角倉了以について興味を持ち、高瀬川の壮大な歴史に思いを馳せてくれればいいな、と勝手ながら思っています。

ちなみにですが、顕彰碑が建っている場所は「立誠ガーデンヒューリック京都」という場所で、日本で初めて開校された番組小学校として有名な「立誠小学校」の跡地なのです。
番組小学校とは、明治維新後の京都で誕生した日本初の学区制小学校のことです。この仕組みが京都から全国へと広がり、日本の近代教育の先駆けとなりました。
江戸時代の京都を変革した了以の碑が、明治時代の京都を象徴する建物に置かれていることに、少し親和性が感じられるような気がします。
*立誠ガーデンヒューリック京都
所在地:京都市中京区備前島町310-2
アクセス:阪急京都線「京都河原町」駅より徒歩3分
角倉了以と京都まとめ

保津川、高瀬川を開削し、京都の都市化を大きく進めた角倉了以。その功績は今なお語り継がれていますが、私が最もすごいなと思うのは「私財を投じて新しい運河を作ろう!」という決断力・行動力です。
莫大な私財を投げ打ったのもそうですが、開削工事の際には、指揮するだけではなく実際に現場に立って工事に取り組んだそうですから、急流に流されるなどして命のリスクもあったのです。
「京の三長者」と呼ばれるほどの名家に生まれた了以であれば、生まれ持った資産をそのまま無難に運用して、安定した暮らしを送り続けることもできたはず。それなのに不確実性の高い「運河の開削」という事業に尽力することができたのは、「混沌とした京都の街を発展させたい」という強い信念があったのだろうと思います。
彼の行動と決断があってこそ、京都の繁栄が実現されたのです。
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