半農半兵の家柄出身の夫を天下人まで押し上げた戦国時代最強のあげまん・ねね。北政所といえば、ねねと言わしめるほどの人物ですが、生涯、夫・豊臣秀吉の好色で悩んだと言われています。
結婚当初から苦楽を共にし、愛情と信頼が固い絆で結ばれたおしどり夫婦の秀吉とねね。なのに、ねねが苦しむと分かっていても次から次へと側室を迎える秀吉は、本当にただの好色男だったのでしょうか?
そして、ねねが本当に悩んでいたのは夫の好色なのでしょうか?
夫のためにあえてサレ妻であり続けた北政所・ねねの心情とゆかりの地をご紹介いたします。
♦♦この記事で訪れた北政所ねねゆかりのスポット♦♦
- 伏見桃山城
- 祢ざめ家
- 高台寺
- 圓徳院
- ねねの道

はし ともえ
この記事を書いた人:はし ともえ
イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。
『ねね』とは

『北政所』で知られるねねは、豊臣秀吉の正室。
秀吉の死後は出家し慶長8年(1603年)後陽成天皇より『高台院』の号を賜り、秀吉を弔うために『高台寺』を建立。
寛永元年(1624年)76歳で亡くなりました。
ねねと豊臣秀吉

生涯、仲が良かったと言われるねねと秀吉は、織田信長によって縁が結ばれたと伝えられています。
織田信長が鷹狩の帰りに浅野長勝の邸に立ち寄った折り、養女・ねねが信長にお茶を出しました。信長はねねを気に入り「藤吉郎、この娘を妻にせよ」と命じたそうです。
数え年でねね14歳、秀吉25歳。浅野家の養女と信長の草鞋取りという身分違いの婚姻で、しかも身分はねねの方が上です。そのため、ねねの実母からの反対はありましたが、最終的には当事者同士と両家の同意のもと婚姻に至りました。
信長の勧めであったにせよ、政略結婚が当たり前、女性側の意思が反映されないのが当たり前の戦国時代に恋愛結婚で結ばれたことは大変珍しいことでした。
『ねね』から『北政所』へ

夫の出世と共に正室であるねねも、戦国武将の妻として重要な役割を担うようになっていきます。内助の功で夫の出世を手助けしただけでなく、譜代の家臣がいない秀吉のために、人材育成に力を注ぎました。
ねねの妹・ややの浅野家の子どもたち、秀吉の母・なかの親戚で従兄弟にあたる加藤清正や福島正則ら秀吉の縁者といった若者たちを傘下に加えました。衣食住やけんかの仲裁まで、ねねが母親のように面倒を見たと言われています。
そしてついに天正 13 年(1585 年)秀吉の関白任官に伴い、ねねは従三位に叙せられ『北政所』の称号を与えられます。また、天正 16 年(1588)には後陽成天皇が聚楽第に行幸のおり、諸事万端整えた功績により従一位に叙せられました。
ねねは豊臣政権下において『北政所』として大きな発言力と政治力を持つこととなり、諸大名も大阪城を訪れる際には『北政所』には挨拶を欠かさなかったと言われています。
ねねと茶々

飛ぶ鳥落とす勢いの豊臣家ですが、長年頭を悩ませてきた大問題、『世継ぎ問題』にとうとう向き合わざるを得ない時が訪れます。ねねには秀吉との間に実子がいなかったため、世継ぎ問題は年々深刻さを増していたのです。
そんななか、文禄2年(1593年)秀吉と側室・茶々の間に第2子・秀頼が誕生。第1子・鶴松がわずか3歳で病死したこともあり、秀吉の秀頼に対する強い執着が芽生えます。
しかし、秀吉の喜びようとは裏腹に周囲は茶々に好奇の目を向けていました。
なぜなら、秀吉には多くの側室や妾がいるにもかかわらず、子どもができたのは茶々との間のみ。しかも秀頼が生まれたのは秀吉が 57 歳のとき。『秀吉の子ではないのでは?』という周囲の疑念はぬぐえなかったからです。
とはいえ、戦国時代の豊臣家が欲しいのは『正当な世継ぎ』であり、それは秀吉の実子でなくても構いません。ねねは豊臣家のために周囲の視線を気にせず、茶々と連携して秀頼の後見人となりました。
秀吉の死後も北政所として秀頼を見守ってきたねねですが、秀頼と徳川秀忠の娘・千姫の婚儀と養母の逝去を見届けた後に出家。慶長 8 年(1603 年)豊臣政権の第一線から退きました。
ねねと秀吉の思い出が詰まった伏見城

大阪と京都を結ぶ要衝の地、伏見の桃山地区に伏見城は建っていました。もともとは指月伏見城と言われ秀吉の隠居屋敷として建てられたものですが、地震や戦で落城したため最終的に徳川家康によって三度目の築城となりました。
ところが、豊臣家滅亡後『一国一城令』により京都に二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり、伏見城は元和 9 年(1623 年)に廃城。跡地には明治天皇陵が建っています。
そのため、現存している伏見桃山城は秀吉の住城ではありません。伏見城の跡地に近い場所に立つ、伏見桃山城キャッスルランドというテーマパークのシンボルとして近年建てられたものです。

はし ともえ
しかし、心配ご無用です。ねねと秀吉の伏見城の思い出は『高台寺』とその塔頭寺院『圓徳院』へと移築され、現代まで受け継がれています。
*伏見桃山城
所在地:京都市伏見区桃山町大蔵45
アクセス:JR奈良線「桃山」駅より徒歩15分
ねねの名に由来する祢ざめ家

伏見稲荷大社の参道の近くに創業 1540 年の老舗『祢ざめ家』という、秀吉とねねの縁のお食事処があります。祢ざめ家の屋号を付けたのは秀吉です。事の起こりは秀吉が母の健康を祈願するため早朝から伏見稲荷大社に参詣したことに始まります。
参詣を終えた秀吉は一服しようとしましたが、早朝のためどこの店も空いていません。その時にただ一つ空いていたのが後の『祢ざめ家』でした。お茶を所望した秀吉は大変喜び、店に『寝覚め家』という屋号をつけ、正室『祢々』(ねね)の祢の字を与えたそうです。
現代の『祢ざめ家』さんのお品書きは、さば寿司・うずら焼き鳥・うなぎ丼と肝吸セットなど。なかでも伏見稲荷にちなんだ『いなり寿司』は黒ごま、ゴボウ、麻の実が酢飯に入って絶品だとか。

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伏見稲荷大社にお越しの際には是非お立ち寄りください!
*祢ざめ家
所在地:京都市伏見区深草稲荷御前町82-1
アクセス:JR奈良線「稲荷」駅・京阪本線「伏見稲荷」駅より、それぞれ徒歩約2分
秀吉の菩提を弔う高台寺

高台寺はねねが伏見城で亡くなった秀吉の冥福を祈るために建てた菩提寺です。秀吉の死から7年後、ねねは朝廷から『高台院』という称号をもらい受けたのを機に、徳川家康の後援のもと高台寺を建立。高台寺は伏見城の一部を移築され壮麗を極めました。
高台寺では秀吉の派手好みが反映された安土桃山時代の豪華絢爛な庭や、伏見城の遺構を楽しむことができます。

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ねねと秀吉が愛でた風景を現代も眺めることができる感慨深いお寺です。
*高台寺
所在地:京都市東山区 高台寺下河原町526
アクセス:京都市バス「東山安井」停留所より徒歩7分
開山堂

高台寺第一世の住持・三江紹益禅師を祀るお堂ですが、その天井には秀吉が使った御船に加え、北政所の御所車の木材が用いられています。
もともとはねねの持仏堂として利用されていたそうです。
観月台

ねねが秀吉を偲んで月を見たと言われる場所。開山堂から続く桜船廊の中央にあり、三方に唐破風の檜皮葺き屋根のある小さな建物です。
ねねの秀吉に対する変わらぬ思いが感じられます。
霊屋
ねねはこの霊屋の地下に埋葬されています。
霊屋内部の中央の厨子には大髄求菩薩像、向かって右に秀吉坐像、左にねねの片膝立ちの木像が仲睦まじく祀られています。
茶室 傘亭・時雨亭

傘亭は宝形造の藁ぶき屋根で内部の天井の形が唐傘に似ていることから、傘亭と呼ばれています。傘亭と廊下で行き来できるようになっている珍しい二階建ての茶室は時雨亭。傘亭と同じく時雨亭も伏見城から移築されました。

時雨亭はねねが大坂夏の陣が終わった後に、大阪城の落城を見ていた場所と言われています。大阪城の落城を時雨亭から見ていたねねの心情は、筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。
ねねが晩年に過ごした圓徳院

圓徳院は高台寺の塔頭寺院。伏見城の化粧御殿とその前庭を移築されたことで、ねねが伏見城で秀吉と過ごした日々を思いながら過ごしたことがうかがえます。ねねは毎日ここから秀吉の菩提を弔うために『ねねの道』を通り高台寺へと通いました。
*圓徳院
所在地:京都市東山区高台寺下河原町530
アクセス:京都市バス「東山安井」停留所より徒歩7分
秀吉公好みの手水鉢
境内には秀吉が好んだと言われている『秀吉公好みの手水鉢』があり、お茶が好きだった秀吉公が偲ばれます。
秀吉が西尾家(今川義元の親戚)に贈ったものですが、後に西尾家から圓徳院に寄贈されたそうです。
北書院
伏見城から化粧御殿を移築した、秀吉とねねの思い出の建物。ねねは、晩年の 19 年間この北書院から高台寺へと通いました。しかし、化粧御殿は現在では焼失してしまっており、非常に悔やまれますが庭は現存しています。

伏見城から移築した庭は『北庭』と呼ばれ、北書院から眺めることができます。巨石が多く配置された珍しい枯山水庭園で、伏見城の庭園の素材をそのまま移して再現。現代に桃山期の庭園様式を伝えています。
ねねの道

京都・円山公園から高台寺へと続く道は、ねねが毎日、圓徳院から高台寺へと足を運んだことから『ねねの道』として親しまれています。

はし ともえ
石畳が敷かれ電柱が地中に埋められているため、昔ながらの京都の風情を楽しみたい方には絶好のスポット!
舞妓さんや人力車が通り、おみやげ屋さんもあるため飽きることはありません。疲れたらお茶屋さんで一息つけますので安心して散策できます。京都にお越しの際は是非、ねねの道へ足をお運び下さい!
*ねねの道
所在地:京都市東山区高台寺下河原町
アクセス:京都市バス「東山安井」停留所より徒歩7分
北政所ねねと京都|まとめ

秀吉の子どもを産んだ側室・茶々に対するねねの気持ちは、複雑だったに違いありません。何故ならそれは、ねねが生涯『子を持つことがなかったから』という理由だけではないからです。
秀吉の大勢の側室の中に南殿・加賀殿・香の前という 3 人の女性がいますが、彼女らは秀吉と離縁、または死別後に別の男性と再婚し子どもを設けています。つまり子供ができない体質なのは、ねねではなくおそらく秀吉。

はし ともえ
現代でも男性が自身の不妊の事実を知ったら相当のショックを受けるというのに、戦国時代の武将なら尚更。
男性不妊の事実を認められない秀吉は、好色を隠れ蓑にたくさんの女性と関係を持ち、万が一の可能性にかけていたのでしょう。
それを、賢いねねはとっくに悟っていたはずです。ねねは秀吉の男性不妊の劣等感払拭のため、豊臣家の世継ぎのためにあえて秀吉の『好色』に耐え続けたのです。
そんなねねにとって、おそらく托卵であろう茶々の妊娠は、秀吉に対する裏切りになります。しかし、世継ぎを熱望する豊臣家にとっては一族存続の希望です。そのため、ねねの茶々に対する感情は言葉にするのが難しいものだったのではないかと思われます。
夫を支え続け、北政所・従一位にまでなったねねの秀吉に対する愛情と誠意は、いまでも世の妻の鏡と言えるでしょう。

はし ともえ
しかし一人の女性としてこれほど苦しみ続けたねねには、来世があるなら平凡な人生でも、女性としての幸せを掴んで頂きたいと切に願うばかりです。
*はし ともえへのお仕事依頼
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