将軍の後宮『大奥』の名が歴史に登場するのは二代目将軍秀忠の時代。もっとも初期の段階では『奥方』『奥』などと呼ばれ、単に将軍の家族の居住空間を指していました。
ところが三代目将軍家光の乳母『春日局』によって大奥は制度として確立。時代と共に規則やしきたりが整備され、1868年の江戸城無血開城まで存続しました。
大奥には将軍の正室・側室・子女、そして全国の武家や公家から集められた側室候補の優秀な女性たちが常時勤務。最盛期には下級の奉公人も含めると1,500人を超えていたとも言われています。
それほどまでに巨大な組織の礎を築いた春日局には、いったいどのような思惑があったのでしょうか?
♦♦この記事で訪れた春日局ゆかりのスポット♦♦
- 麟祥院【妙心寺塔頭】
- 金戒光明寺
- 真如堂【真正極楽寺】

はし ともえ
イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。
春日局とは

徳川三代将軍家光の乳母であり『大奥』の統率者となる春日局は、1579年、戦国武将・斎藤利三の娘『お福』として丹波国に生を受けます。
母は稲葉良道の娘・稲葉安。父母共に有力武家出身のため、お福は何不自由なく暮らす名門の姫でした。
子ども時代から徳川家の乳母になるまで

逆賊の娘に
しかし、1582年、状況が一変します。父と主君・明智光秀が共に織田信長を襲撃し『本能寺の変』が勃発。父が追手の豊臣秀吉に敗れ、京都の六条河原で逆賊として処刑されると一家は離散。兄弟は落ち武者となり各地を流浪したと伝えられています。
女性のお福は母方の稲葉家に引き取られ、成人後は母方の親戚にあたる三条西家で養育されました。このとき、書道・華道・香道・行儀作法など、公家の教養を身に付けます。
その後、お福は16歳のとき稲葉家の計らいで、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となりました。夫・正成は関ヶ原の戦いにおいて主君・秀秋を説得し、東軍に寝返らせ徳川家を勝利に導いた大功労者です。
ようやく運が上向いたかと思いきや、関ヶ原の戦いからわずか2年で秀秋は早世。跡継ぎのいなかった小早川家は改易し家臣たちは浪人へ転落。お福と正成は美濃の国で半農生活を余儀なくされました。
乳母募集のお触れ
ところが、先行きの見えない結婚生活を送るお福のもとに転機がもたらされます。1603年、徳川幕府が開府しその翌年、二代目将軍・秀忠と正室・お江の間に竹千代(後の家光)が生まれると乳母募集のお触れが出されました。
条件は『京都に在住経験があり教養があること』。自分なら申し分ないと判断したお福は、半農生活から抜け出すために夫・正成と離縁し長男・正勝を連れて京都へ向かいます。

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結果は見事採用!選考にあたりお福の家柄と公家の教養、そして夫・正成の戦功が評価されたと言われています。
乳母から大奥の最高権力者へ

お福、駿府城へ
お福が竹千代の乳母になってから2年後、二代目将軍秀忠・お江夫妻に第2子国松(後の忠長)が生まれます。本来なら非常に喜ばしいこの出来事が、長子・竹千代を苦しめてしまいました。
江戸時代前期にまとめられた書物『武野燭談』によると、二代目将軍夫妻は「世継ぎは国松では」と周りにささやかれるほど国松を寵愛。
竹千代はこの様子を目の当たりにし自害を図ろうとします。
この事態に危機感を募らせたお福は、駿府城へ出向き大御所・家康に直談判。家康は家督争いで再び戦乱の世になることを避けるため、『長幼の序』つまり長子優先を周囲に徹底しました。このため竹千代が世継ぎに決定したという逸話が残されています。
大奥誕生
1620年に竹千代は元服し徳川家光となり、1623年、将軍就任とともに摂家の鷹司孝子と結婚。徳川家はお祝いムードでいっぱいですが、お福は『世継ぎ問題』が気がかりなこととして常に心にわだかまっていました。
危惧していた通り、政略結婚だった家光と孝子の間にはなかなか世継ぎができる気配がなく、徳川家の存続は年々雲行きが怪しくなる一方。

はし ともえ
「徳川家が揺らげば再び戦乱の世に戻ってしまう。それだけは避けねば!」と心を決めたお福は、将軍継嗣のため『大奥』の制度化に着手します。
まず、お福は次々と個性の違う側室候補を大奥に住まわせ、家光に斡旋していきました。やがて、お万・お振・お楽・お夏・お玉など、数多くの側室との間に複数の世継ぎを得ることに成功します。
さらにもう一方では、大奥内の身分を上からピラミッド状に階層化して、仕事を分担し機能させました。しきたりや法度も整え大奥を制度として確立させていきます。
そして、とうとうお福は『将軍様御局』と呼ばれ、実質的に大奥の最高権力者となりました。この職は後に『御年寄』と呼ばれ、大奥最高幹部として将軍の『胤』を管理・監督に携わり、老中をも上回る権力を持つことになります。
お福から春日局へ
1629年、お福は、家光の疱瘡治癒祈願のために伊勢神宮へ参拝。そのまま上洛して御所へ昇殿を図りました。これは大御所となっていた秀忠の意向で、後水尾天皇と幕府の融和のためと言われています。
しかし現代人の私たちには想像もしなかった問題が浮上します。お福は稲葉正成と離縁しているので、武家の娘としては処刑された斎藤利三の娘という立場のままでした。これでは昇殿することは叶いません。
そこで、かつてお世話になった母方の親戚・三条西実条と猶妹の縁組をして、『公卿三条西福』として後水尾天皇と中宮徳川和子に拝謁しました。
その際、従三位の位と『春日局』の称号を賜り、再上洛した1632年には従二位に昇格。逆賊の娘が日本女性の最高位に上り詰めたのです。
春日局として武断政治を行う
1632年、大御所・徳川秀忠が死去すると家康から続いていた『二元政治』が終わりを告げました。とはいえ、開府初期の徳川家の権力の基盤はまだまだ危ういものがあります。
そこで春日局は大奥を取り仕切るだけではなく、武断政治に関与し家光を補佐。松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支える『鼎の足』の一人として、徳川家のために尽力することとなりました。
春日局の家族のその後
春日局の家族の多くは、春日局の恩恵を受け出世したと伝えられています。
元夫の稲葉正成は越後で2万石の大名として復帰。江戸に乳母募集の際に連れてきた我が子・稲葉正勝は相模・小田原藩において8万5000石を所有する大名となりました。
その他にもかつて苦境にあった時に援助してくれた人々に、春日局は1643年9月に死去するまで恩返しを続けたと伝えられています。
春日局にまつわる京都のスポット
麟祥院【妙心寺塔頭】

麟祥院は京都市右京区だけではなく東京都文京区にもあります。京都市右京区の麟祥院は1634年、徳川家光が春日局の菩提寺として建立しました。臨済宗妙心寺派に属しており、春日局が開基(創建者)・開祖(初代住職)は碧翁愚完。
方丈
宝冠釈迦如来を本尊としている方丈には、春日局の父・斎藤利三と親交の深かった『海北友雪』による方丈襖絵(西湖図・雲龍図・瀟湘八景図)があります。(特別公開時のみ)
御霊屋
御水尾天皇から賜った釣殿を移築した御霊屋には、小堀遠州作と伝わる春日局の木像が安置されています。
*麟祥院(妙心寺)
所在地:京都市右京区花園妙心寺町49
アクセス:JR嵯峨野線「花園」駅より徒歩5分
金戒光明寺

通称『黒谷さん』で知られる金戒光明寺は本尊を阿弥陀如来とし、知恩院と並ぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つ。1175年、浄土宗の開宗を決めた法然が草庵を結んだのが始まりとされ、浄土宗最初の寺院となります。
供養塔
境内には春日局の供養塔があり、史跡説明板では辞世の句を詠むことができます。
『西に入る月を誘い法をe得て今日ぞ火宅を逃れけるかな』
(西に没する美しい月を心に留め仏の教えに従い、やっと今日悩み多いこの世から逃れることができます)

はし ともえ
やれることはすべてやり切ったという達成感を感じるのは、私だけでしょうか?
実はそのすぐ近くに崇源院(お江・忠長の母)の遺髪を収めた供養塔と徳川忠長(家光の弟)の供養塔があります。これは春日局が奇行のため自刃した忠長を慮り、既に同寺に建立されていた崇源院の供養塔の近くに建てたものです。
極楽橋

春日局が崇源院の墓を参詣するために蓮池に木像の橋を架け、後に秀忠の供養のために三重塔を建立する際に石橋に作り替えられたものです。
西翁院
金戒光明寺の塔頭寺院の西翁院は、通称『よどみの寺』と言われています。御本尊は寺宝でもある、春日局が作った阿弥陀如来像。

はし ともえ
通常は非公開なので特別拝観などでお立ち寄りの際には、お寺の関係者の方にお尋ねください。
*金戒光明寺
所在地:京都市左京区黒谷町121
アクセス:京都市バス93・204系統「 岡崎道」下車、徒歩10分
真如堂【真正極楽寺】

正真正銘の極楽の寺という意味を持つ天台宗の寺院ですが、本堂の通称『真如堂』が寺の通称になってしまったそうです。
984年、比叡山延暦寺の僧・戒算が、延暦寺の常行堂に安置されていた阿弥陀如来像を神楽岡に移し開創。応仁の乱のあと各所を転々としましたが1693年、現在地に落ち着きました。なお、本尊の阿弥陀如来立像は特に女性にご利益があるとされています。
たてかわ桜
本堂前に立つ『たてかわ桜』は春日局が真如堂の墓地に葬られた父・斎藤利三の菩提を弔うために植えたとされています。
伊勢湾台風で倒木したものの生き残った幹から再生し、現在では春に白く小ぶりでかわいらしい花を咲かせます。ソメイヨシノの木の皮目に対して、皮目が縦に入っていることから『縦皮桜』と呼ばれています。
斎藤利三の墓
春日局の父・斎藤利三は六条河原で処刑された後、友人の海北友松たちの手により真如堂・東陽院へ葬られました。また、斎藤利三と海北友松の墓石は並んで建てられています。
*真如堂(真正極楽寺)
所在地:京都市左京区浄土寺真如町82
アクセス:京都市バス5・17・100系統「錦林車庫前」下車、徒歩約8分
春日局と京都まとめ

生活のためとはいえ夫と離縁し、幼い我が子たちとも離れての乳母就任はどれほど心が苦しかったろうと思います。

はし ともえ
「子どもたちは今何をしているだろう」「どのくらい成長したろう」と思い、罪悪感と後悔のために毎日心が揺らいだのではないでしょうか?そのたびに「私が竹千代の乳母になり半農生活から抜け出すことが我が子たちのためだ」と信じて自身を奮い立たせていたはずです。
また『武野燭談』では竹千代が自殺を図ろうとします。母の愛情を求めて竹千代が心を痛める姿が、お福の心の中で会えない我が子たちと重なったのは言うまでもありません。春日局の母の愛が、駿府城の家康のもとまで足を運ばせる力になったのでしょう。
また、春日局の母の愛が歴史に与えた影響ははかり知れません。
徳川幕府創成期から明治維新までの約260年間、日本では家督争いによる戦は皆無。世継ぎを絶やさないための『大奥』と、『長幼の序』が戦を起こさせませんでした。
親兄弟でも家督を争った戦国時代とは違い、戦で民が苦しむことがない時代の礎を築いたのは春日局といえます。

はし ともえ
我が子たちや竹千代、そして後の世の子供たちにまで、振りそそいだ春日局の大きな母の愛には心から頭が下がります。
