『玉の輿』という慣用句には、女性が自分よりも身分が高く裕福な男性と結婚したことで、社会的地位が向上するという意味があります。
これは、徳川幕府第3代将軍・家光の側室にして、第5代将軍・綱吉の母『桂昌院』のシンデレラ物語に由来し、幸運な結婚の比喩表現として使われます。
しかし幼少期に『お玉』と呼ばれ、青物屋(八百屋)の娘から大奥の最高権力者にまで上り詰めた桂昌院は、ただ幸運なだけの女性ではありませんでした。
♦♦この記事で訪れた桂昌院ゆかりのスポット♦♦
- 桂昌院殿生家菩提寺【真敬寺】
- 今宮神社
- 善峯寺

はし ともえ
この記事を書いた人:はし ともえ
イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。
桂昌院とは

桂昌院は1627年に京都の青物屋・任左衛門の娘『お玉』として生まれたと伝えられています。幼いころは貧しく庶民の苦労を味わいました。
父の死後はさらに不安な毎日を送ってましたが、母が武家の名門・本庄家の飯炊き係の職を得たことから人生が好転していきます。
器量良しだったお玉の母は、妻を亡くしたばかりの本庄家当主・本庄宗政の目に留まり後妻に迎えられたのです。
シンデレラ物語の始まり

本庄家の養女となり、武家の作法を徹底的に仕込まれたお玉が13歳の頃、大奥行きの話が持ち上がります。
本庄家がつかえている公家の娘・お万の方が将軍家光の側室に迎えられるため、その部屋子(世話係)に抜擢されたのです。
大奥での生活

大奥に入る女性の大半は名門の武家や公家の娘。そのため、大奥の生活は一見華やかに見えますが、実際は大変厳しい階級社会。お玉のように庶民出身でも、才覚や美貌を持ったものは大奥に取り立てられることがありましたが、それは稀なことでした。

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厳しい環境の中でも聡明なお玉は、持ち前の機転の良さと社交性を発揮します。
次第に周囲の注目を集め、とうとう家光の乳母であり大奥の最高権力者『春日局』の部屋子になります。春日局はお玉に『将来の側室』の可能性を見出したため、より上級の教育を施し側室候補として育て上げました。
さらに美しく、立ち居振る舞いも魅力的になったお玉は、側室候補が振り袖姿で江戸城の庭を歩く『御庭御目見得』で家光に見初められます。
そして春日局の後押しも功を奏し、見事、家光の側室となることができました。
お玉から桂昌院へ

1646年、お玉は家光との間に徳松(後の綱吉)を出産。大奥での地位をゆるぎないものにしたかに見えましたが、すでに家光には複数の世継ぎ候補がいます。案の定、第4代将軍には別の側室の息子・家綱が就任しました。

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そこで、お玉は徳松の教育に力を入れ、徳松を将軍にする機会を待つことにしました。
1651年、お玉は家光の死後に落飾して大奥を離れ『桂昌院』を名乗ります。以後30年、息子・徳松と共に江戸屋敷で学問と仏門への帰依に打ち込みます。その間も桂昌院は幕府の有力者たちと関係を築き、徳松を将軍にするための可能性を模索し続けました。
その甲斐あって1680年、死の床の第4代将軍家綱の命により、徳松は第5代将軍に就任。長い時を経て、桂昌院と徳川綱吉(徳松)は江戸城に帰ることとなりました。
桂昌院の野望

春日局が没していたこともあり、桂昌院は将軍の生母『大御台所』として大奥の最高権力者になりました。出家した身でありながら、実際は幕府の政治に強い影響力を持つ立場を得たのです。
30年間根回しを行い我が子を将軍に押し上げ、大御台所として幕府の政治に介入するほどの影響力を持った桂昌院は何を成し遂げたかったのでしょうか?
その答えは将軍綱吉により発布された『生類憐みの令』にあるでしょう。表向きは将軍からの法令ですが、仏教に帰依した桂昌院の意向が強く反映されていると伝えられています。

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もともと『生類憐みの令』は捨て子や辻斬りを強く禁じ、身分の低いものや病人を憐れむよう命じた法令。そのため市井の人々の苦労を知る桂昌院の配慮がうかがえます。
しかし、次々と法令が施行される度に、内容が生き物全般にまで波及し厳罰化が進んだため、民衆の反発を招くこととなりました。
生類憐みの令に対する民衆の不満を受け、桂昌院の政治的影響力は次第に薄れてしまいます。それでも神仏を深く尊崇した桂昌院は、1705年に79歳で没するまで江戸や京都の寺院に莫大な寄進と復興に尽力し綱吉政権を支え続けました。
なお、24年間続いた生類憐みの令は1709年、綱吉の死去に伴い第6代将軍・徳川家宣によって廃止されました。
桂昌院にまつわる京都のスポット
桂昌院殿生家菩提寺【真敬寺】
桂昌院の生家は真敬寺近くにあったと伝えられ、現在では桂昌院の生家として本庄家の菩提寺である真敬寺の門脇に石碑が残されています。
『徳川五代将軍綱吉公御生母桂昌院御生家菩提寺』と記され、往時を偲ばせます。
*真敬寺
所在地:京都市上京区元福大明神町297
アクセス:京都市地下鉄烏丸線「丸太町」駅から徒歩11分
今宮神社

今宮神社は、994年に京を襲った疫病を鎮めるために創建された神社。本社には、大己貴命・事代主命・奇稲田姫命を祀り、疫病退散のご利益があるとされています。
社会情勢のため廃れてしまった今宮神社でしたが、1694年、神仏を崇敬する桂昌院の再建事業によってかつての活気を取り戻し現代に至ります。お玉によって復興したことから『玉の輿神社』とも呼ばれるようになりました。
やすらい祭
今宮神社で毎年4月第2日曜日に行われる『やすらい祭』は、『花鎮めの祭』とも言われ疫病退散・無病息災を祈願するお祭。京の三奇祭の一つとして知られ、川上大神宮社から今宮神社まで、赤い打掛に黒い毛を付けた鬼たちが鉦や太鼓のお囃子で町内を巡行します。
実際にはできませんが、鬼の持つ桜や椿の生花で飾られた『風流傘』の下をくぐると、一年健康に過ごせると言われています。
これは『春の花が飛び散る時に悪霊や疫病も飛び散る』という言い伝えから。傘をくぐり悪霊疫病を追い払い、神社に封じ込めるためなのだそうです。

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京都にお越しの際は、平安時代から続く国指定重要無形民俗文化財の奇祭『やすらい祭』をぜひご覧ください!
あぶり餅

今宮神社の東門の外には、『あぶり餅』で有名な和菓子屋が2軒向かい合わせに建っています。
一軒は創業1000年の元祖『一文字屋和輔』。今宮神社に奉納したのが始まりとも、参拝者にふるまったのが始まりとも言われており、疫病除けの餅と言われています。
向かい合わせのもう一軒は1637年創業の『かざりや』。創業以来400年の深い歴史を持つ和菓子屋で、こちらのあぶり餅も病気封じや厄除けのご利益があるのだそう。

両店とも親指大の餅に、きな粉をまぶして竹串に刺して焼き、焼き色が付いたところで甘い白味噌だれをつけて頂きます。
陰陽道由来の『吉数』11本で提供され、玉のような餅を食べることで『玉の輿にあやかる』という言い伝えもあるとか。

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どちらのお店のあぶり餅も『食べるお守り』『神餅』として大評判!好きな人に言わせると微妙に味が違うそうなので、食べ比べがお勧め!
玉の輿お守り

青物屋の娘・お玉の『玉の輿伝説』にちなんで、西陣織の布に京野菜の柄が刺繍されているお守り。玉の輿だけでなく、良縁・金運・出世・開運にご利益があるとされています。

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色の種類も豊富なので、ご自分用とお土産用にいかがでしょうか?
*今宮神社
所在地:京都市北区紫野今宮町21
アクセス:京都市バス「今宮神社前」下車すぐ
善峯寺

善峯寺は1029年に源算上人が小堂を建て、自作の千手観音を本尊として祀ったのが創建と伝えられています。1034年には五一条天皇により勅願所に定められ『良峯寺』の寺号を賜りました。
幼少期に貧しかったお玉は同寺に父母と共に度々訪れ、父の死後は2年半ほど母と共に母の義兄『成就坊賢海』のもとに同居したと伝えられています。そのため、お玉は桂昌院となってから多くの寄進をしました。

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現存の鐘楼堂・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂は、桂昌院によって寄進・復興されたものです。また、多くの貴重な什物も寄進されました。
境内には御神灯などに桂昌院の家紋『繋ぎ九つ目紋』が見られ、桂昌院の出世にちなんで玉の輿や開運出世のご利益があるとされています。
厄除けの鐘

1686年、桂昌院によって鐘楼堂が建立され梵鐘が寄進されました。梵鐘は『綱吉の厄年』に寄進されたため厄除けの鐘と言われています。
枝垂れ桜

善峯寺には彼岸桜や山桜など多くの桜が見られますが、桂昌院お手植えの枝垂れ桜は経堂の西側で荘厳な美しさを誇っています。もみじの古木と絡み合った珍しい結び木で樹齢300年以上の名木。
桂昌院廟

善峯寺には1705年に建立された桂昌院廟があり、桂昌院の遺髪が納められています。なお、遺骨は東京都の増上寺・徳川将軍家霊廟に合祀。墓所は東京都の本庄家菩提寺・法受寺にもあります。複数のゆかりの地で供養されているようです。
*善峯寺
所在地:京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
アクセス:阪急バス63系統「灰方」下車、徒歩約43分
桂昌院と京都まとめ

お玉は桂昌院の地位を得た時、幼い頃に自分が味わった不安や苦労を民衆に背負わせまいとしたのでしょう。
父が亡くなった時に手を差し伸べてくれた善峯寺、飯炊き係を雇うという形で救ってくれた本庄家。そして大奥での努力を認めてくれた春日局のように、憐れみを持って人に接することの尊さが生類憐みの令発布につながったのです。

はし ともえ
折りしも徳川家康から家光まで続いた武断政治が終わりをつげ、第4代将軍・家綱から始まった文治政治を定着させる意図もあったはずです。
武力で国を治めるのではなく、儒教に基づいた学問・教育・法制・礼節などを重視して社会秩序の安定を図る文治政治は、民度を上げる期待がありました。
自分と同じように必死に努力する者を支援し、身分が低くとも才能ある人物を保護することは国の発展につながると信じたのです。
しかし、理想だけでは人の世は救えませんでした。

はし ともえ
庶民出身で実際に人々の暮らしを目の当たりにした桂昌院と、将軍の息子で勉学に励み知識はあるが世間を知らない綱吉。この二人の間で、生類憐みの令に対する考え方に乖離があったのかもしれません。
生類憐みの令は法令としては未熟な部分が多く、捨て子や殺人は減少しましたが現実に庶民を救える部分が少なかったことがそれを物語っています。
けれども、桂昌院の世の人々に報いたい思いは、荒廃した神社仏閣への莫大な寄進・復興に繋がり、現代の私たちに与えた影響も少なくはありません。
*はし ともえへのお仕事依頼
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