激動の平安時代末期、弱冠15歳で父・平清盛と平家一門の期待を一身に背負い、第80代高倉天皇と結婚した建礼門院徳子。周囲からは仲がいいと評判の夫婦で、7年という歳月はかかったものの皇子を出産。国母となり女性としては並ぶ者のない地位に上り詰めました。
しかし実際は夫の寵愛は小督という別の女官へ向いており、新婚当初から仮面夫婦生活。夫と父を相次いで亡くした後、かねてから関係が悪化していた後白河法皇との対立が激化し、 源平合戦の渦中へ投げ込まれます。
戦いは5年に及び、壇ノ浦の戦いで追い詰められ入水に及んだ徳子でしたが、心ならず源氏側に助けられ生き延び、尼僧になって平家の菩提を弔いました。
平家滅亡と最愛の息子・安徳天皇の入水を目撃した栄枯盛衰の目撃者・建礼門院徳子の胸中とゆかりの地をご紹介いたします。
♦♦この記事で訪れた建礼門院徳子ゆかりのスポット♦♦
- 清閑寺
- 六角堂(頂法寺)
- 新熊野神社
- 吉田山
- 長楽寺
- 寂光院

はし ともえ
この記事を書いた人:はし ともえ
イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。
建礼門院徳子とは

建礼門院徳子は父・平清盛と母・平時子との間の次女。15歳のときに高倉天皇の中宮(妻)となり、 22歳で言仁親王(のちの安徳天皇)をもうけ国母となります。安徳天皇が即位し、高倉上皇の逝去をうけ女院(上皇に準じる待遇の女性)となり『建礼門院』を号しました。
平家物語にあるとおり、壇ノ浦の戦いで徳子は源氏側に助けられ長楽寺で出家。後に寂光院に移り、終生を平家一門の菩提を弔い物語の幕を引くことになります。
建礼門院徳子と小督

結婚当初、高倉天皇はまだ11歳の少年。徳子からすれば弟のような夫だったことでしょう。『建礼門院右京大夫集』によると夫婦仲は良好。徳子が懐妊した折、高倉天皇は新熊野神社に安産祈願に詣でています。
しかし不仲ではないものの、新婚だというのに高倉天皇は召使である葵前という女童に夢中で、身分違いの恋に苦しんでいました。
あまりの熱愛ぶりに、周囲の人々が将来は女御になるかもしれないと召使の葵前を『葵の女御』と呼ぶようになってしまいます。それを知った高倉天皇はお互いの立場を慮って慎み、 葵を召さなくなりました。
天皇と言ってもまだ幼さの残る少年です。感情を抑えきれず悲嘆にくれる若き天皇のため に、徳子は自分に仕えていた美貌と琴の才能を持つ藤原成範の娘・小督を引き合わせたといわれています。

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実際は小督を見初めた高倉天皇が、徳子の立場を考慮し『徳子が高倉天皇に小督を引き合わせたという体にして』小督を召し上げたのでしょう。当時、天皇が複数の后妃を持つのは普通のことでした。
ところが、高倉天皇と小督局の関係を知った平清盛は、早々に徳子に懐妊して欲しいがために小督局を宮中から追い出そうとしました。小督は平清盛を恐れ宮中から姿を消しますが、 高倉天皇によって探し出され宮中に戻り、後の範子内親王を出産。
徳子よりも先に子どもを設けたことを知った平清盛はさらに激高。ついに小督を宮中から追放し、『清閑寺』で小督を出家させてしまいます。

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平家物語ではこの出来事で心を痛めた高倉天皇は病に伏したと描かれているほどです。
1181年1月「小督のもとで葬って欲しい」という遺言を残し、21 歳の若さで高倉天皇は早世。葬儀も埋葬も『清閑寺』で行われました。
平家滅亡

時を少し戻して1178年、徳子が22歳のときに高倉天皇との間に言仁親王を出産。言仁親王は清盛の画策で生後わずか1か月で皇太子、1歳で安徳天皇に即位。父である高倉天皇は 退位させられ上皇になりました。

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これにより徳子の父・平清盛は天皇の外祖父となり、平家物語でいわれる『おごる平家』誕生となったのです。
しかしすでにこの前年、後白河法皇の近臣が起こした『鹿ケ谷の陰謀』など、平家打倒の動きがみられ『平家の栄華』に翳りが見え始めていました。
1179年、平清盛の強引な政権交代に危機感を募らせていた後白河法皇は、『治承3年の変』により院政を停止させられ鳥羽殿に幽閉されてしまいます。
そして高倉上皇による院政が始まりますが、1180年、とうとう『おごる平家』に耐えかねた後白河法皇の第三皇子・以仁王と源頼政が平家打倒のため挙兵。 以仁王は戦死しましたが、全国の源氏に発した『平家追討の令旨』に応えて源頼朝・木曽義仲が参戦、『治承・寿永の乱』が勃発します。

各地で源平合戦が繰り広げられるなか、1181年、高倉天皇と平清盛が相次いで逝去。平家は国政に関与する手段を完全に失い、後白河法皇の院政が復活します。安徳天皇は閑院に移され、徳子は院号宣下を受け『建礼門院』と称されるようになりました。
平家は平清盛の3男・平宗盛が平家の棟梁を務めますが、『倶利伽羅峠の戦い』で木曽義仲に撃破されることで形勢が一気に傾き、平家一門は都から落ち延びます。
そして1185 年、『治承・寿永の乱』から始まった戦いもついに壇ノ浦の戦いを迎え、幕を閉じることになります。序盤は海戦に慣れた平家軍が優勢でしたが、潮の流れが変わり源氏軍が有利になると一気に形勢逆転し平家軍は壊滅。

追い詰められた平家方が次々と入水していく中、建礼門院徳子は自身の母・平時子が自身の子・安徳天皇を抱いて入水する姿を目撃することになります。
絶望し自らも入水しましたが、まだ『建礼門院』として政治的利用価値があるとされ、源氏側に助けられ京へ護送されました。
捕らえられた平家のうち男性は処刑・女性は捕虜となり、建礼門院徳子は後白河法皇の勧めもあって長楽寺で直如覚尼と名乗り出家。寂光院へ移り平家一門の菩提を弔う生活を続け、 1213年、波乱の生涯を静かに閉じました。
小督と高倉天皇が眠る清閑寺

高倉天皇の遺言は守られ、小督と共に永遠の眠りにつくことができました。清閑寺は802年、紹継法師によって創建され、かつては清水寺よりも大きな寺院でした。応仁の乱によって荒廃し、現在では本堂と鐘楼のみ。

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それでも秋の紅葉は時間を忘れるほどの美しさ!お時間に余裕を持ってお立ち寄りください。
*清閑寺
所在地:京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3
アクセス:京阪バス「清閑寺山ノ内町」停留所より徒歩約10分
後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)
清閑寺の背後の山には第79代天皇・六条天皇の御陵と高倉天皇の陵墓、その傍らに小督のお墓があります。また、境内にも創建者の紹継法師と共に小督局の供養塔があり、その隣には小督桜と呼ばれる桜が毎年花を咲かせています。
願いが叶う要石
本堂前方には、石垣に囲まれた『要石』と言われる石があります。そこからの眺望が扇のように開かれている為、石を扇の要に見立てて名づけられました。『願いをかけると叶えられる』と伝えられており、パワースポットとして人気。
徳子の如意輪観音菩薩像を所蔵する六角堂(頂法寺)

『六角さん』と呼ばれ京都の人々に親しまれている六角堂・頂法寺は聖徳太子によって建立され、建礼門院徳子が安産を祈願して寄進した如意輪観音菩薩像が安置されています。
*頂法寺
所在地:京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248
アクセス:京都市営地下鉄「烏丸御池」駅5番出口より徒歩3分
京都の中心を表すへそ石

京都の中心を表していると言われているへそ石は、中央に丸い穴が開いている六角形の石。平安京増設時に本堂の位置に道を通すために勅使が祈ったところ、堂が北の現在地に移動し、もとの位置に石が一つ残ったという伝説から『本堂古跡の石』ともいわれています。
縁結びの六角柳

六角堂は縁結びのスポットとしても有名です。平安時代初期、お后を探していた嵯峨天皇は夢枕で観音様に「六角堂の柳へ行くように」と告げられました。嵯峨天皇がすぐに柳へ向かうとそこには美しい女性が立っており、その女性を妃に迎えたそうです。

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このエピソードから「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる』と言われ『縁結びの柳』 と言われるようになりました。
十六羅漢とお地蔵さま

六角堂の十六羅漢は皆どれも優しい顔つきをしており、『優しい顔で穏やかに話をすることでよい報いがある』と言う教えを表しているのだそうです。
また境内には、いたるところにお地蔵さまが安置されています。一つだけ願いをかなえてくれる『一言願い地蔵』や願いを掌に優しく包み込んで祈る『合唱地蔵』、小さな子供を守ってくれる『わらべ地蔵』など。

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たくさんのかわいらしいお地蔵さまも見どころの一つとなっています。
徳子の安産を祈願した新熊野神社

高倉天皇が建礼門院徳子の安産を祈願したことから、安産守護の神様として信仰を集めてい ます。『熊野権現』を厚く信仰していた後白河法皇により、紀州国(和歌山県)の熊野から土砂・材木などを搬入し創建。
以来 350 年にわたり京都の熊野信仰の中心として繁栄を極めます。しかし、応仁の乱で焼失。廃絶同様の状態から江戸時代に再興されました。
*新熊野神社
所在地:京都市東山区今熊野椥ノ森町42
アクセス:京都市バス「今熊野」停留所より徒歩約3分
樹齢900年の樟大権現

応仁の乱を耐え抜いた後白河法皇の手植えの樟は残っており、現在、樹齢900。『樟大権現』として信仰され、後白河法皇のお腹の病が治ったという謂れを持ち『健康長寿』『病魔退散』のご利益があるとされています。
熊野造りの本殿
全国的に見ても珍しい『熊野造り』と呼ばれる神社建築様式。京都の重要文化財に指定されています。
主祭神は熊野牟須美大神。熊野に鎮座し、あらゆる生命の根源をつかさどっている神様です。日本神話では伊邪那美尊と称されます。

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御神鳥は熊野神の八咫烏。サッカー日本代表のシンボルになったことでさらに広く知られることとなり、『目標達成の神』『勝利をもたらす神』『幸運をもたらす神』として信仰されています。
八咫烏がモチーフの御朱印・絵馬
新熊野神社の御朱印は神仏習合時代の伝統的なもので熊野神・三本足の八咫烏が描かれてお り、カラスをモチーフにした文字が大変特徴的です。
絵馬のモチーフも八咫烏が用いられています。樟大権現と八咫烏の両方が描かれた絵馬は鳥 居の形をしており、色鮮やかで華やかなデザイン。

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お願い事のある方は太陽の化身・導きの神に願掛けをしてみてはいかがでしょうか?
徳子が隠棲した吉田の地にある吉田山

京都に連れてこられた建礼門院徳子は東山の麓・吉田にある中納言・慶恵の僧房に住むことになりました。平家物語によれば荒れ果てた僧房で栄華を極めたころを思い出し、涙した日々が続いたようです。
吉田山は古来より『神楽岡』と呼ばれる聖地で、山容が美しいことから東山三十六峰の12峰目に数えられています。
*吉田山
所在地:京都市左京区吉田神楽岡町
アクセス:京都市バス「京大正門前」停留所より徒歩約5分
吉田神社

859 年、中納言藤原山蔭卿により京の都の鎮守神として創建されました。第一殿・第二殿は 厄除・開運の神、第三殿は学問の神、第四殿は女性に徳を授ける神様が祀られています。
吉田神社には本殿以外でも複数の社殿や末社があります。

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なかでも、お菓子を祀る『菓祖神社』や料理を祀る『山蔭神社』などユニークな神社を目当てに参拝する人も。
また、斎場所大元宮は全国の神々が祀られているので、ここにお参りすれば全国の神社にお参りしたのと同じご利益があるのだとか。複数のご利益を得たい方におすすめです。
徳子が出家した長楽寺

建礼門院徳子が寂光院に移るまでの5か月間滞在し、1185年に真如覚尼と称し出家した寺院。805 年最澄により創建された天台宗寺院で、後に時宗に改められました。
*長楽寺
所在地:京都市東山区円山町626
アクセス:京都市バス「祇園」停留所より徒歩10分
建礼門院御塔
源平合戦の後に、建礼門院徳子が御髪をおろしたときの御髪塔と伝えられています。建礼門院徳子の御陵は大原にありますが、ご遺骨を長楽寺に納めたとも伝えられているため、御舎利塔とも言われています。
安徳天皇御衣幡
建礼門院徳子にはお布施にするものがなかったため、安徳天皇が最後まで着ていた直衣を自ら幡(旗)に縫ってお布施としました。泣く泣く手放したであろうことが伺え、平家物語ゆかりの大変貴重な遺品として伝えられています。
建礼門院御影
剃髪した29歳の建礼門院徳子(直如覚尼)の肖像画。源氏の目をはばかり墨で黒く塗りつぶしたのだそうです。
徳子が住職として過ごした寂光院

建礼門院徳子が第3代住持を務め隠棲した寺院。平家一門と安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの寺院で過ごしました。平家物語では1186年、後白河法皇が寂光院を訪れ灌頂巻『大原御幸』で建礼門院徳子と再会しています。

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創建は古く594年、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられています。
*寂光院
所在地:京都市左京区大原草生町676
アクセス:京都バス「大原」停留所より徒歩15分
建礼門院徳子・御庵室跡
後白河法皇が訪れ、仏教に帰依した徳子が自ら目撃した平家の栄枯盛衰を、六道に例えて語る平家物語・灌頂巻『六道之沙汰』の舞台。現在は石碑と徳子が使用したと言われる井戸の 跡が残るのみです。
建礼門院徳子大原西陵

寂光院の門前にある石畳の陵墓径を上がって行ってください。その先には建礼門院徳子大原西陵があります。出家していたこともあり、鳥居の中に五輪塔がある珍しい仏教式御陵とさ れています。
しば漬け

京都大原の特産品といえば、茄子とちりめん赤紫蘇を使用した『しば漬け』。実はこのしば漬けは建礼門院徳子が名付け親と言われています。
ある日、寂光院に移り住んだ徳子を慰めようと、里人が徳子に赤紫色の漬物を献上しました。徳子は『紫葉漬け』(むらさきはづけ)と名づけ大変喜び、後に『しば漬け』と呼ばれるようになりました。

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『しば漬け』は『すぐき』『千枚漬け』と共に京都の3大漬物として今もなお愛され続けています。
建礼門院徳子と京都|まとめ

徳子が本当に意図的に自身の夫・高倉天皇に小督を引き合わせたかどうかは分かりません。 しかし、夫の愛した人に対するひたむきな思いに、尊敬の念を持っていたことは間違いないと思われます。
1181年、高倉天皇の死後、平清盛は後白河法皇とのつながりを保つため、徳子を後白河法皇の後宮に入れるという信じられない提案を徳子にします。
それまで従順だった徳子は、生涯でこの時のみ、父・清盛に『否』を突きつけ拒絶。後白河法皇もこの案を辞退したため、異母妹の御子姫君が後宮入りすることでこの話は収束しました。
この徳子の意思は明らかに高倉天皇の影響だと思われます。「小督のもとで葬って欲しい」 と死の床で訴えた高倉天皇の姿に、誰かへの愛情も結婚も命令されるものではないことに気づき感化されたのかもしれません。

はし ともえ
それに高倉天皇は小督を強く想いながらも、小督を召し上げる折は徳子の立場や気持ちに配慮し、徳子の妊娠中には新熊野神社に安産祈願に詣でるという心配りをしています。徳子はそれを嬉しくもまた少し寂しくも想いながら、生涯、夫は高倉天皇のみと心に決めていたのでしょう。
建礼門院徳子は、尊敬していた夫に先立たれ最愛の息子の死を目撃した波乱の人生でした。 せめて死後は、誰にも命令されず波の下の都で安徳天皇と再会し、幸せであることを切に願うばかりです。
*はし ともえへのお仕事依頼
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