日本三大悪女の1人として知られている『淀殿』は、絶世の美女と言われた母・お市の方に似て大層な美人だったと言われています。誰もが振り向く美女が悪女と呼ばれるようになったきっかけは、天下人・豊臣秀吉の世継ぎをもうけたことに始まります。
秀吉は正室や多くの側室を迎えているにもかかわらず、懐妊したのは淀殿のみで初産は秀吉が52歳のとき。秀吉の年齢や他の妻たちが懐妊していないことを踏まえると、「淀殿の子は秀吉の子ではないのでは?」という疑惑が浮上したからです。
1人目の鶴松が死去し2人目の秀頼の他に後継ぎがいなかった豊臣家では、淀殿のお腹の子の父親については触れないことが暗黙の了解とされていたようです。
家族の仇である秀吉の側室にさせられた淀殿が、悪女と呼ばれても果たしたかったこととはいったい何だったのでしょうか?
♦♦この記事で訪れた淀殿ゆかりのスポット♦♦
- 養源院
- 淀古城跡
- 智積院
- 方広寺
- 三寳寺

はし ともえ
この記事を書いた人:はし ともえ
イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。
淀殿とは

淀殿は本名を『浅井茶々』といい、父は北近江の戦国大名『浅井長政』、母は織田信長の妹『お市の方』。兄弟に長男『万福丸』次男『万寿丸』、姉妹は茶々を長女として、次女『初』と三女『江』がおり後に浅井三姉妹と呼ばれるようになりました。
人生で二度の落城

1573年、茶々が7歳のとき、父・浅井長政と織田信長が敵対し長政の小谷城は落城。父・長政は祖父と共に自害し、兄の万福丸は信長の命を受けた羽柴秀吉によって処刑。茶々はお市・姉妹と共に信長に保護されます。
1582年、本能寺の変で信長が自害すると、母・お市は織田氏家臣・柴田勝家と再婚。

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政略結婚ではあるものの夫婦仲は良好で、浅井三姉妹も継父を慕い穏やかな生活が始まります。
しかし、それも長くは続かず1583年織田政権の後継者・主導権を巡って勝家と秀吉は激しく対立。戦に発展し最終的に勝家は『賤ケ岳の戦い』で大敗します。勝家自身は自害を覚悟したうえで、お市と浅井三姉妹を城から脱出させようとしました。
しかし、お市は勝家とともに自害する道を選択します。そして、秀吉に三姉妹の身柄の保護を求める書状を送り、三姉妹には「浅井と織田の血を絶やさぬように」と言い聞かせ城から脱出させます。ほどなく勝家・お市はともに自害し勝家の北ノ庄城は落城します。
茶々は母の再婚からわずか6か月で母と継父を失い、人生で2度目の落城を経験しました。
仇と結婚

秀吉に保護された後、茶々は秀吉から求婚されますが「妹たちの縁組を整えた後」と返答。そのため妹たちの婚姻後、1588年に秀吉の妻となりました。 茶々は浅井三姉妹の中でとりわけ母・お市に似てとても美しかったため、お市に憧れを抱いていた秀吉の側室に迎えられました。
しかし、秀吉は茶々にとって父・長政を自害に追い込み兄・万福丸を処刑し、継父・勝家と母・お市を自害に追い込んだ仇です。茶々が秀吉に好意的であったとは思えません。 後々、茶々の心の底に渦巻いている秀吉に対する本音は裏切りという形で露見します。
1589年茶々は第1子・鶴松を出産し、歓喜した秀吉から『淀城』を与えられ『淀殿』や『淀の方』と呼ばれるようになりました。ところが、わずか3歳で鶴松は死去。悲嘆にくくれる秀吉でしたが淀殿はその2年後の1593年第2子・秀頼を出産します。

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喜びいっぱいの秀吉ですが、周囲は淀殿に疑惑の目を向けました。
なぜなら、秀吉の多くの妻は今まで一度も子を持つことが叶わなかったのに、淀殿は2人も子を設けることができたからです。
しかし、後継者問題を抱えていた豊臣家にとって秀頼は最後の希望。淀殿は周囲の目を気にせず『北政所・ねね』と連携して秀頼を豊臣家の後継者として育てていきます。
人生で3度目の落城

1598年、秀吉が死去し豊臣政権の主導権を巡って徳川家康と石田三成が対立。豊臣家ではわずか6歳の秀頼が家督を継ぎましたが、しだいに家康が豊臣家の存在を圧迫して来るようになりました。
また、豊臣家滅亡を回避するため家康と協調すべきとするねねと、是が非でも我が子秀頼を天下人にしたい淀殿が対立。豊臣家の命運に暗雲が立ち込めてきます。
1600年、石田三成が挙兵し全国規模の戦闘に発展。『関ヶ原の戦い』で徳川家康が勝利すると豊臣家はかつての権力を失い、大名家の一つとして扱われることになりました。江戸幕府を開いた家康は豊臣家に臣従を求めますが、淀殿は受け入れず家康と敵対します。

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このころからねねは少しづつ政治から距離を置くようになり、1603年に出家し豊臣政権の第一線から退きました。
以降、淀殿が豊臣家の権力を掌握することになります。
1614年、いよいよ目の上の瘤である豊臣家を滅ぼすため、家康が起こした『方広寺鐘銘事件』をきっかけに『大坂冬の陣』が勃発。つづく1615年『大坂夏の陣』によって大坂城は落城。 淀殿は人生で3度目の落城によって豊臣家と共に壮絶な人生の幕を閉じました。
養源院

淀殿が父・浅井長政の追善供養のために秀吉に願って1594年に創建した寺院。養源院の名前の由来は浅井長政の戒名から付けられました。
落雷によって焼失しましたが、1621年に淀殿の妹で徳川秀忠の正室『江』が再興。秀忠・江の両名の位牌には菊・葵・桐の3つの紋が記されており、このように天皇家・徳川家・豊臣家の紋が一緒にあるのは他に例がありません。
血天井
関ヶ原の戦いの前哨戦『伏見城の戦い』で徳川方武将・鳥居元忠とその部下たち380余名は豊臣方に打ち取られる直前に伏見城内で自害。徳川方の兵士たちを弔うため、血で染められた廊下を天井に上げたものです。
俵屋宗達の杉戸絵・襖絵
本堂には血天井の武将たちの魂を弔うために『俵屋宗達』の杉戸絵があります。『白象図』『唐獅子図』『波と麒麟図』など珍しい動物が大胆な筆遣いと構図で描かれています。
襖絵は松の間の襖に描かれた『岩に老松図』が有名。背景がすべて金箔で仕上げられ躍動感のある技法で描かれたもので、現存する俵屋宗達唯一の襖絵です。

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私たち現代人は中学校・高校の美術の教科書で見覚えがあるのではないでしょうか?
*養源院
所在地:京都市東山区三十三間堂廻り656
アクセス:京阪電車「七条」駅より徒歩約7分
淀城跡 (淀古城跡)
現在、秀吉が茶々に与えた淀城は徳川秀忠が建てた淀城と区別するため、『淀古城』とも呼ばれています。遺構がなく、当時を偲ぶものは跡地の一角にある『妙教寺』境内の『淀古城址の石碑』のみとなっており、石碑には以下のように記されています。
此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂 淀古城址 与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である】
淀城は茶々の夫・秀吉が茶々の懐妊を喜び産所として与えた城でしたが、伏見城築城により役目を終え廃城となりました。
*淀古城跡
所在地:京都市伏見区納所北城堀46
アクセス:京阪電車「淀」駅より徒歩約7分
智積院

真言宗智山派総本山智積院の前身は、1592年に豊臣秀吉が鶴松の菩提を弔うために創建した『祥雲禅寺』です。
創建には当時の京都所司代・前田玄以と加藤清正が普請奉行を務めました。その為、特に築城の名手として知られる加藤清正の功績を称えて、加藤家の桔梗紋を智積院の紋として受け継ぎました。

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1615年、豊臣家滅亡後に徳川家康の帰依を受け、祥雲禅寺は智積院に寄進される形で新たな歴史を歩むこととなります。
智積院には多くの宝物品が所蔵されていますが、もっとも有名なのは『長谷川等伯』による国宝『金碧障壁画』。桃山時代の最高傑作と言われており、紹運禅寺の重閣造りの本堂や客殿などの内部を飾るために描かれたものです。
『金碧障壁画』には『松に秋草図』『楓図』『桜図』のほか、『雪松図』『松に黄蜀葵図』があり、桃山時代の豪華絢爛な文化を今に伝えています。
*智積院
所在地:京都市東山区東瓦町964
アクセス:京阪電車「七条」駅より徒歩約10分
方広寺

1586年、方広寺は秀吉が大仏を安置する寺として創建され、当時は『大仏殿』と呼ばれていました。 安置されていた大仏は約19メートル。奈良の大仏よりも大きかったのですが、その後の大地震や焼失などで現在では十分の一の大きさの『毘盧遮那仏』が安置されています。
また、方広寺境内でひときわ目立つのは日本三大鐘楼の一つと言われ、豊臣家滅亡のキッカケとなった『方広寺鐘銘事件』の鐘楼。高さ4.2m、直径2.8m、重さ約83tの鐘楼には、白く囲われ『国家安康』『君臣豊楽』と刻まれている部分を見ることができます。

とくに注目すべきは『国家安康』。悪意を持って家康の間に安の字を入れて分断し呪詛になっていると家康に指摘され、大阪の陣へ発展。豊臣家の滅亡を招きました。

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京都にお越しの際は、歴史の転換点となった鐘楼をご覧になってみてはいかがでしょうか?
*方広寺
所在地:京都市東山区茶屋町527-2
アクセス:京阪電車「七条」駅より徒歩約8分
三寳寺
『鳴滝の妙見さん』で親しまれている三寳寺は1628年に『右大臣菊亭経季』によって建立された日蓮宗のお寺。境内には京都御所から移植された『お車返しの桜』や樹齢700年の楊梅があります。
7月の土曜の丑の日に行われる『頭痛封じのほうろく灸祈祷』が有名。 また、三寳寺境内・妙見宮の参道には大坂夏の陣で自害した淀殿と秀頼、そして秀頼の子・国松の供養塔があります。この供養塔は豊臣家に仕えていた氏家行広の娘であり、淀殿の姪の『古奈姫』によって建立されました。
菊亭の夫人となった古奈姫は、供養塔を立て徳川家の目を避けながら菩提を弔ったそうです。 いつの頃からか、この供養塔をなでると良縁に恵まれ結婚が成就するという噂が立ち『縁結びの塔』とも呼ばれています。
*三寳寺
所在地:京都市右京区鳴滝松本町32
アクセス:京福電車「宇多野」駅より徒歩約15分
まとめ

三姉妹を案じて伝えた「浅井と織田の血を絶やさぬように」というお市の最後の言葉は『世を儚んで自害などせぬように』という意味のはずです。しかし、仇の側室にされた茶々には別の意味でその生涯を縛り付ける呪言になってしまったようです。
夫が秀吉でなかったなら、妹たちのように淡々と生きることもできたかもしれませんが、仇が夫という生活です。秀吉に対する憎しみや、父母・兄・継父の無念の思いを、姉妹の中で一番強く感じながら生きなければならなかったのではないでしょうか?

はし ともえ
『秀吉の世継ぎができないのは好都合。自分が懐妊すれば豊臣ではなく浅井と織田の血を残すことができる。天下人の権力を使って浅井と織田の血をのし上がらせてやる!』 このような復讐心を持ち、時が経つにつれて妄執へと変化したのでしょう。
豊臣家が不穏な空気に包まれていく中、北政所・ねねだけは、淀殿の止められない妄執を見抜き憐れに思っていたようです。なぜなら、淀殿の妄執の原因は明らかにねねの夫・秀吉だからです。
ねねは対立関係から一転、『もはやこれまで』と覚悟し出家。秀吉の菩提を弔うため、静かに豊臣政権の舞台から降りました。 後世の人々に悪女の汚名を着せられた淀殿の、誰にも理解されない悲しみを一番理解してくれたのは、不仲と言われていたねねだったのかもしれません。
*はし ともえへのお仕事依頼
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