京都の街には、芸術と日常が溶け合う素晴らしい文化が根付いています。陶芸家・河井寛次郎は、この地で活躍した代表的な芸術家の一人です。島根に生まれ東京で学んだ寛次郎は、生涯の拠点として京都を選びました。
彼による研究や創作、日常と芸術が一体となった生き方は、今も多くの人々の心を動かし続けています。作品に触れると、古都の空気と彼の温かな感性が伝わってくるようです。そこには技術だけでなく、寛次郎が追求した「用の美」の思想も息づいています。
この記事では、京都の風土と深く結びついた河井寛次郎の足跡をたどりながら、彼に関する芸術と思想の魅力をお伝えします。
♦♦この記事で訪れた河井寛次郎ゆかりのスポット♦♦
- 京都市立陶磁器試験所発祥地(六原公園)
- 五条坂
- 河井寛次郎記念館
- 鍵善良房四条本店

しぶたかおり
この記事を書いた人:しぶたかおり
読者視点を大切にするWebライター。4年間の経験でWebライティング技術を磨き、介護から工芸、文化まで幅広い分野で記事作成の実績を重ねています。夫は備前焼作家。陶芸の魅力と田舎暮らしのリアルを発信中。
河井寛次郎とは

河井寛次郎(1890-1966)は、日本の近代陶芸に新しい風を吹き込んだ芸術家です。陶芸に加え彫刻やデザインなど多岐にわたる創作に取り組み、多彩な才能を発揮した人物でした。
島根県安来市の大工の家に生まれた寛次郎は、東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科で学びました。1914年に京都へ移り住んだ彼は、初期に科学的な研究に基づいた華麗な作風で注目を集めます。
1921年の創作陶磁展覧会では「新人にして名人」と評価されました。京都で活動中、柳宗悦との出会いを機に大きな転機を迎えます。民藝運動に共鳴した寛次郎は、「用の美」を重視した実用的な陶器制作へと向かいます。

そして晩年には、京都の伝統と自身の創造性を融合させ、より自由で奔放な造形表現を追求するようになりました。1955年に人間国宝や文化勲章を辞退し、名誉や地位にとらわれない姿勢を貫きます。
京都を終の棲家として選んだ寛次郎の生涯を通じた芸術的探求による軌跡は、今なお見る人を魅了し続けるのです。
河井寛次郎の勤務地『京都市立陶磁器試験所』

河井寛次郎が技師として勤務した京都市立陶磁器試験所は、明治29年(1896年)に東山区の清水寺近くに設立された施設です。この試験所は、当時衰退の危機にあった京焼の再興を目指して作られました。
設立の背景には、明治時代における京焼の苦境があります。江戸時代には茶道の流行とともに栄えた京焼でしたが、明治期に入ると茶陶の需要が激減。
さらに、徒弟制度による閉鎖的な技術継承では、欧米向け輸出品の製造増加という新しい時代の要請に対応できなくなっていました。試験場では、原料や釉薬の研究改良、製法による機械化など、従来の手仕事を改めて生産能率を高める取り組みを進めます。
寛次郎をはじめ、多くの名工たちがここで研究に励み、日本の窯業発展に力を注いだのです。
その後、試験所は大正8年(1919年)に国立陶磁器試験所へと昇格。現在、かつての試験所があった場所には六原公園が整備され、発祥地碑が建てられています。

また、公園南側には明治中期に建てられた登窯の煙突が2本残されており、当時の面影を今に伝えています。これらは、寛次郎と京都陶芸の歴史を物語る証として、私たちの心に深い感動を与え続けています。
*京都市立陶磁器試験所発祥地(六原公園)
所在地:京都市東山区梅林町576-6
アクセス:京阪電車「清水五条」駅より徒歩約12分
河井寛次郎が暮らした清水焼発祥の地・五条坂

河井寛次郎が五条坂に住まいを構えたのは1920年のことです。五代清水六兵衛の技術顧問を務めていた縁から彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名付けました。同じ年、京都の宮大工の娘・つねと結婚し、五条坂で新たな人生の一歩を踏み出します。
この地での暮らしは、寛次郎の創作活動に大きな転機をもたらしました。当初は華やかな作風で注目を集めていましたが、やがて自身の制作に深い迷いを感じるようになります。しかし、苦悩の時期を経て、実用的で簡素な造形へと作風を変化させていきました。

1937年、室戸台風で住居が損壊したことを機に、寛次郎は新たな住まいを構想します。故郷の民家の形をもとに、登り窯に調和する独創的な構造を自ら設計。大工である実家の協力も得て、新たな自宅兼工房を五条坂に完成させたのです。
五条坂での日々は、寛次郎にとって創作活動の原点となります。土や言葉など、多彩な表現活動を展開した場所。その後、この地で生まれた作品や暮らしの記録は、現代に受け継がれる貴重な遺産となっています。
*五条坂
所在地:京都市東山区
アクセス:京阪電車「清水五条」駅よりすぐ
『暮らしが仕事 仕事が暮らし』河井寛次郎記念館

寛次郎の生活哲学を体現する空間が、現在記念館として公開されている旧居です。ここでは芸術と日常が溶け合った独自の世界観を直接体感できます。
暮らすように過ごせる空間

河井寛次郎記念館は、京町家風の外観と重厚な内部構造を併せ持つ住まい兼仕事場です。寛次郎自身がデザインした家具や、丹念に集めた調度品が今も残り、当時の雰囲気を伝えています。
展示室では寛次郎の陶芸をはじめ、芸術的才能を示す作品がさりげなく配置されています。作品は生活の中に自然と溶け込むように展示され、まるで今も暮らしているかのような空間です。
仕事場だった工房や窯も当時のまま保存され、創作の場として大切に受け継がれてきました。年間を通じて多くの人々が訪れ、寛次郎が追求した芸術と暮らしの調和を今に体感できる貴重な空間となっています。
創作に使用されていた登り窯

記念館の奥にたたずむ大きな登り窯は、寛次郎が30歳の時に五代清水六兵衛から譲り受けたものです。窯には複数の窯室があり、下から2番目の部屋を使用。当時、五条坂は焼き物の町として栄え、約20軒もの陶芸家たちが窯を共同で使用していました。
素焼き窯で焼かれた作品に釉薬をかけた後、登り窯で1350℃の高温で焼きあげます。1971年に使用を終えるまで、寛次郎の創作の要として役割を果たしました。今も当時と変わらぬ姿で残り、京都の陶芸史を物語る貴重な文化遺産となっています。
寛次郎が残した言葉たち

寛次郎は陶器や木彫だけでなく数多くの名言を残しています。
「暮らしが仕事 仕事が暮らし」
彼の人生哲学を端的に表しています。現代人の多くが仕事と私生活を明確に分けているのに対し、寛次郎にとって24時間は生活も創作も一体。庭には陶器と洗濯物が共存し、日常と芸術が自然に溶け合う空間が広がっていました。
「新しい自分が見たいのだー仕事する」
単なる技術の繰り返しを否定するのではなく、同じ作業をしながらも常に新しい発見を求める姿勢を表現した言葉です。
「此世は自分をさがしに来たところ、此世は自分を見に来たところ」
この言葉にも、創作を通じ自己を探求した彼の生き方が表れています。
寛次郎は、便利で情報にあふれている私たちに、もっとシンプルで豊かな生き方の可能性を示しているのかもしれません。
河井寛次郎と祇園の鍵善良房

河井寛次郎は祇園の老舗和菓子店「鍵善良房」と深い縁がありました。店には寛次郎から贈られた大きな壺をはじめとする作品が今も大切に保管され、「くづきり」という書も飾られています。
鍵善良房には寛次郎へお菓子の配達をしていた記録が残っています。やがて単なる商売の関係を超え、文化的な交流へと発展。寛次郎を含め、多くの文化人が鍵善良房に集うようになり、夕方になると店の小上がりや店頭はにぎわいを見せていました。
現在も店内には当時と変わらぬ面影が色濃く残り、寛次郎が残した作品から独特な雰囲気を感じることができます。
まとめ

河井寛次郎は島根県に生まれた陶芸家でありながら、京都という地に深く根を下ろし、独自の芸術世界を築き上げました。若き日に京都市立陶磁器試験場で技術を磨き、五条坂の地で創作と暮らしを一体化させた寛次郎の姿には、芸術家としての真摯な生き方がうかがえます。
「暮らしが仕事 仕事が暮らし」という言葉に象徴される寛次郎の精神は、記念館となった旧居や、親交のあった鍵善良房にも息づいているのです。
あなたも河井寛次郎の足跡をたどり、芸術と暮らしの調和について考えてみませんか?
▼記念館の様子が知りたい方はこちらも参考にしてください。
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