教科書にも載っている「中原中也」ってどんな人?生涯をざっくり解説

教科書にも載っている「中原中也」ってどんな人? ◆作家について

本記事では、詩人「中原中也」についてご紹介します。

中原中也ってどんな人?

中原中也の顔写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/

中原中也は1900年代を生きた「詩人」です。

これまで「一つのメルヘン」や「汚れっちまった悲しみに」など、多くの作品が中学校や高校の教科書に掲載されてきました。

また、現代では漫画「文豪ストレイドックス」にてキャラクター化されたことで若者からの知名度が高まってきています。

今回は中原中也について、「どんな人生を送ってきたのか」をご紹介します。

年表

1907年 山口県で生まれる。軍医である父親の都合で、引越しの多い家庭だった。

1914年 小学校入学。教育に厳しい家庭で育った為か、「神童」扱いされる。

1915年 弟である「亜郎(つぐろう)」が病死。このことが中也の詩作のきっかけとなる。

1920年 県立山口中学校に12番の成績で入学。この頃から読書欲が起こり、みるみる成績が下降していく。

1922年 歌集「末黒野」を私家版として出版。

1923年 落第し、京都の立命館中学3年に転校となる。京都の地で、女優志望の長谷川泰子という女性と知り合い、同棲する。古本屋で「ダダイスト 新吉の詩」を読み、強い影響を受ける。

1925年 東大のフランス文学科の学生であった小林秀雄と知り合う。小林は詩作仲間であったが、同棲していた泰子が小林と恋愛関係に陥り、小林の元へと去ってしまったことから関係がこじれていく。

1928年 父親が胃癌により死去。

1931年 東京外国語大学専修科仏語部に入学。弟「恰三(こうぞう)」が病死。

1933年 大学卒業。下宿で学生向けにフランス語の個人教授を始める。遠縁にあたる上野孝子と見合いをし、結婚する。

1934年 長男「文也(ふみや)」誕生。詩篇「山羊の歌」を刊行。

1935年 「文也」が小児結核により死去。

1937年 精神に変調をきたし、神経科のある病院に入院。やがて退院するも、この年に、結核性脳髄炎により死去。当時30歳。

1938年 没後、「在りし日の歌」刊行。

(参考文献:「中原中也 詩集」 編:吉田凞生 H12.04.01)

幼少期 弟の死をきっかけに詩作を始める

中原中也は1907年に山口県で生まれました。

父親は軍医をしており、転勤の多い家庭だったようです。

また、教育熱心な家庭でもあり、厳しい環境の中で育ってきたようです。その為か、中也は「神童」と呼ばれるほど賢く育っていきます。

中原中也誕生の地の写真
中原中也誕生の地

中也は当時、4兄弟の長男だったのですが、彼が小学生の頃に次男の「亜郎(つぐろう)」が病死してしまいます。

亡き弟への詩作が詩人中原中也の始まりだったのですね。

弟の死に対してどう向き合うべきか、その答えを文学の中に模索していったのではないかと考えられます。

中学生 文学に傾倒し、勉学がおろそかに・・・

非常に優秀な成績で中学入学を果たします。

しかし、文学にハマっていくに従って、みるみる成績は下降していきました。

中原中也が通った山口中学校の校舎
中原中也が通った山口中学校【引用元:https://www.homemate-research-junior-high-school.com/】

この頃から中也は自作の短歌を「防長新聞」に送り、入選掲載されています。

合わせて80首ほどが掲載されたと言われています。

15歳の頃に、「防長新聞」の記者、学校の上級生とともに歌集「末黒野」を刊行します。既に文学の才能が伺い知れますね。

高校生 落第の末、京都の学校へ転入し、下宿生活

山口中学は落第してしまいます。

その結果、京都の立命館中学に転校することになり、中也は京都の地で下宿生活を送ることとなります。

中原中也の下宿先の家
中原中也の現存する下宿先【引用元:https://twitter.com/stepney141/】

家族は大変にショックだったようですが、当の本人はそうでもなかったようです。

ダダイズムとの出会い

京都の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」という本と出会い、「ダダイズム」という詩作スタイルに感銘を受けた中也はダダイズム風の詩、小説を書き始めます。

ダダイズムとは、1910年代半ばにヨーロッパやアメリカで起きた芸術運動のことを指します。

1920年ベルリンの大ダダ見本市の様子
1920年ベルリンの大ダダ見本市【https://ja.wikipedia.org/wiki/】

「ダダ」は、辞書の中から無作為に選んだ言葉で、反芸術的な運動という意味合いだったのですね。

さらに言うと、ダダイズムは芸術の否定に留まらず、人間の理性そのものを否定しているとも考えられています。

長谷川泰子と小林秀雄

中也は京都の地で、役者志望の長谷川泰子という女性と出会い同棲を始めますが、同時期に知り合った東大生の詩作仲間「小林秀雄」に惚れてしまった泰子は彼の元に去ってしまいます。

この頃の三角関係を描いた漫画「最果てにサーカス」も面白いので是非読んでみてください。

父親、弟の死

この頃に、父親と、弟の「恰三(こうぞう)」が相次いで亡くなっていることがわかります。

幼少期から学生時代までの短い期間にこれだけ多くの「家族の死」に直面してきたのですね。

結婚し、長男が誕生するも翌年に病死してしまう

紆余曲折あり入学した東京外国語大学を卒業し、遠縁の女性と結婚することになった中也。

翌年には息子の「文也(ふみや)」が誕生します。

しかし文也は、生まれて間もなく病死してしまうのです。

中也 30歳の若さで死去

長男の死により精神に変調をきたした中也は、神経科のある病院に入院します。

やがて退院しましたが、結核生脳髄炎により倒れ、帰らぬ人となってしまいました。

30歳という若さで亡くなってしまったのです。

まとめ

中原中也は30歳という若さでこの世を去りましたが、その生涯の中で四人もの家族の死に

直面しました。

中也の感じた深い悲しみは「ダダイズム」という手法によって難解な形で表現されましたが、その人生を知ることでイメージしやすくなるのではと思います。

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