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中原中也と京都|中学時代の京都生活を辿る

近代(明治~昭和時代)

中原中也は少年期、2年ほど京都に住んでいた時期があります。

彼は幼少期から神童と呼ばれ、地元の名門校として知られる山口中学校に進学しますが、文学に傾倒し過ぎた為か、3年生での落第が決まってしまいます。そこで、中学3年生の歳(1923年)から1年間、京都の立命館中学に編入することになります。

本記事では、中原中也が「京都でどんな暮らしを送っていたのか」を、通っていた学校や下宿先などを巡りながらご紹介します。

ライター<br>hotarus
ライター
hotarus

この記事を書いた人:hotarus

大学時代から京都在住の30代。YouTubeチャンネル「hotarusの京都暮らし」も運営中。カフェと寺社仏閣巡りがマイブームです。

中原中也とは

中原中也は大正・昭和時代を代表する詩人の一人で、代表作「汚れちまった悲しみに」や「サーカス」などは現代の国語の教科書にも採用されています。

自らの「悲しみ」や「喪失感」をテーマにした作品が多く、彼の持つ独特の語感によって軽快さを保ちつつ、その深奥まで見事に表現しています。(私のお気に入りの作品などについても、追ってご紹介します)

立命館中学に転入

まずは中也が進学した「立命館中学校」についてご紹介します。

中也が通っていた立命館中学北大路学舎は、1988年の移転に伴い、無くなってしまいました。場所は、現在の「大谷大学」付近に位置していました。大谷大学は、北大路駅の目と鼻の先にあり、利便性も良く、綺麗なキャンパスでした。

立命館中学では、京大の学生でありつつ非常勤講師を務めていた「冨倉徳次郎」と出会い、冨倉の知人である詩人「富永太郎」をはじめとした、歳上の詩人仲間たちと親交を深めました。

富永太郎はフランス詩への造詣が深く、中也の作風に多大なる影響を与えた人物の一人でした。

最初の下宿先は聖護院近辺

中也が京都に来てから初めて住んだのが、「上京区岡崎西福ノ川」という場所でした。こちらは京都の銘菓「八ツ橋」で有名な「聖護院」の東側で、現在の京都大学病院のすぐ近くに位置しています。

聖護院や熊野神社、哲学の道などが近隣にあり、文化的な土地といった印象でした。とても静かで住みやすそうですが、中也の通っていた立命館中学からは少し距離があったので、歩いて通うのは大変だったようですね。

その後立命館中学のすぐそばに引っ越しますが、結局こちらの聖護院近辺に再び戻ってくるのでした。

丸太町中筋通りに転居する

聖護院付近での生活は半年ほどで、その後は丸太町中筋付近へと転居したそうです。

1年間で既に3回も引っ越している訳ですから、驚かされますね。付近には「丸太町橋」があります。

橋の上から見る鴨川が絶景でした。中也も同じ景色を眺めたのでしょうか。

丸太町橋の付近には書店が数件見つかりました。

中也はこの付近にある古本屋さんで「ダダイスト新吉の詩」を購入したと言われています。中也のダダイズムとの出会いはこの土地から始まったんだなと、感慨深くなります。

(画像にある本屋さんは新しい感じでしたので、実際に中也が訪れたお店ではなさそうです)

街の本屋さんでのふとした出会いが、彼の詩人としての人生を大きく好転させたのです。

大将軍 椿寺近辺にて長谷川泰子と同棲を始める

中也が長谷川泰子と同棲をしたのが、椿寺(地蔵院)の隣にある下宿でした。当時の中也は中学3年生でしたから、かなり早熟といった印象ですね。

場所は「北野天満宮」の近くで、立命館中学からはかなり遠方にあります。また中也が足繁く通っていた、繁華街の四条河原町からも遠い位置にあります。役者をしていた長谷川泰子の都合もあり、こちらに住むことになったのでしょうか。

詩集「山羊の歌」には、長谷川泰子と思われる人物が何度も登場しています。例えば、私の最も好きな「生ひ立ちの歌」では、長谷川泰子と思われる人物に対する深い愛情が、自然風景の変容と結びついて、実に美しく表現されています。

他にも、中也の作品としては珍しい長編詩である「無題」という作品では、共に上京した長谷川泰子と離別したことのよる混乱や感謝、怒りや後悔などといった荒れ狂った感情が赤裸々に表現されています。

彼女との出会いと別れが、中也の文学性に与えた影響は計り知れません。

今出川中筋通りに転居する

椿寺付近で半年ほど過ごした後、今出川中筋通りへと転居します。こちらは京都御所の近辺にあり、京都の中でも一等地と呼ばれる土地です。立命館中学のある北大路にはグッと近付きました。

さすがに椿寺からの通学は遠すぎると判断したのでしょうか。

京都御所はお散歩コースとしても人気で、季節の草花を愛でながら、のんびりと過ごすことができます。きっと中也と泰子も、一緒に御所をお散歩したこともあったのでしょうね。

寺町今出川のスペイン風窓のある下宿に転居する

そのまた半年後には寺町今出川にある下宿に転居し、中学を4年で卒業した中也は大学受験に向けて、泰子と共に上京します。こちらの住居は現存しているとのことで、Google マップにも情報が載っていました。

スペイン風の窓であるかは良く分かりませんでしたが、中也と泰子が京都で過ごした最後の家ということもあり、感慨深いものがありました。

まとめ

中原中也は京都での2年間で、なんと「7箇所」もの下宿先に住んでいたのですね。

まずはご実家の経済力に驚愕してしまいますが、多くの土地で過ごしたからこそ中也の見識が広まり、濃密な京都生活を送ることができたのかもしれませんね。

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