江戸時代の画家・伊藤若冲は、京都の青物問屋に生まれ、錦市場と深い関りを持っていた人物です。一般にはそれほど知られていなかった若冲の存在ですが、2000年以降、その人気に火がついてブームにもなりました。
色彩や筆使い豊かな絵画を描いた若冲は、一体どのような人物だったのでしょうか。今回は、伊藤若冲の人物像に着目しながら、若冲ゆかりの京都のスポットを紹介します。
♦♦この記事で訪れた伊藤若冲ゆかりのスポット♦♦
- 伊藤若冲生家跡案内板(錦市場)
- 相国寺
- 糺の森
- 石峰寺
- 伏見稲荷大社
- 細見美術館

まる きょうこ
この記事を書いた人:まる きょうこ
京都の魅力を発信するライター。当サイト及び京都の地域メディア「京まちあるき」の運営者。20代の頃より京都を旅し続け、2016年に子連れで関東圏から京都に移住。地域の情報を多数執筆しています。
伊藤若冲とは

伊藤若冲は1716年、京都の錦小路で青物問屋「桝屋」の長男として生まれました。
23歳で父親が死去し桝屋を継ぎますが、商売にはあまり熱心ではなかったとされています。妻も持たず40歳のときに弟へ家督を譲った若冲は、人生の多くの時間を絵画制作に没頭して過ごしました。

若冲の作品は、緻密な描写や鮮やかな色彩が人気です。一方、墨一色で濃淡や筆使いを駆使した作品や、晩年にはユーモラスな作風の絵画も残しています。
若冲は一時狩野派から学んだともいわれていますが、正式な師匠は持たなかったようです。だからこそ、自身の表現を追求し、独創的な才能を存分に発揮できたのかもしれないですね。
若冲が救った錦市場

若冲の生家は、錦市場の西端、錦通と高倉通が交わる辺りにあったそうです。
市場の八百屋さんではなく、流通業者のような形で生産者や商人を管轄・調整していました。家が裕福だったため、若冲は画材も良いものを揃えられ、作品が色褪せないのはそのおかげだとか。
人生のほとんどを絵画の制作に費やしたとされる若冲ですが、錦市場のために奔走し、絵を描かなかった時期が3年ほどありました。若冲が50代後半の頃のことです。
若冲の子孫による「京都錦小路青物市場記録」には、商売敵の策謀により、錦市場が存続の危機に陥った際の記述があります。町年寄だった若冲が、壬生村の農民などにも働きかけて市場の必要性を訴えたのだそうです。若冲のこの尽力によって、錦市場は救われました。
錦市場の存続のために多くの人を巻き込むことができたパワフルさや、情熱を注いでいた絵画の制作を止めてしまうほどの責任感の強さなど、若冲の違った一面を感じられるエピソードですね。また町年寄は、人望が厚いからこそできる役割だったようです。
錦市場では、各店舗のシャッターに若冲の絵が描かれているなど、若冲の存在を大切に扱っていることがわかります。
*伊藤若冲生家跡(錦市場)
所在地:京都市中京区中魚屋町511
アクセス:地下鉄烏丸線「四条」より徒歩約3分
若冲と相国寺の深い関わり

若冲は、京都市上京区にある相国寺と深い関わりがありました。
相国寺の僧侶・大典顕常との関係

40歳で隠居して絵画の制作に専念した若冲。44歳のとき、若い頃から親交のあった相国寺の僧侶・大典顕常により、金閣寺の方丈の襖絵(鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画)を描く絵師として抜擢されます。
大典顕常は若冲を支援する、いわゆるパトロン的な存在であり、若冲もまた大典顕常を師として禅の教えを仰いだそうです。
若冲の作品が相国寺の危機を救った
相国寺は、幕末に起きた京都の大火災「天明の大火」で境内の多くが消失したうえ、明治期に入り廃仏毀釈の流れで存続の危機に陥ります。
相国寺の再建に活躍したのが絵師たちの作品で、なかでも若冲の傑作『動植綵絵』を明治天皇に献納したことは、相国寺の敷地の維持に大きく貢献したのだそう。錦市場だけでなく、相国寺もまた若冲に救われたのですね。
糺の森の茶席と若冲

若冲が大きな影響を受けた人物にはもう一人、「売茶翁(ばいさおう)」がいます。
売茶翁は、大典顕常と親交が深かった僧侶で、お茶を煎じて飲ませながら教えを説いていました。売茶翁が茶席を設けた場所の一つに、糺の森があります。
「若冲」という号の由来
若冲と売茶翁は、大典顕常によって引き合わされた可能性が高いようです。糺の森の茶席で、大典顕常が売茶翁の茶器に書いた「大盈若沖(たいえいじゃくちゅう)」という老子の言葉。これが若冲の号の由来となったといわれています。
「大盈若沖」…大いに満ち足りているものは空虚に見えるが、その働きは尽きることがない(老子『道徳経』第45章)
若冲も糺の森で、売茶翁のお茶を飲んでいたのかもしれないですね。
憧れの売茶翁からの賛辞
若冲は裕福な生まれのため、絵を売って生活をする必要はありませんでした。しかし、茶を売りながら禅を説いた売茶翁の生き方を尊敬し、自らも米一斗で絵を一枚描くとして「米斗翁(べいとおう)」と名乗っていました。
そんな憧れの売茶翁から若冲は、作品『動植綵絵』に対して「丹青活手妙通神(たんせいかっしゅのみょう、かみにつうず)」という賛辞をもらいます。
「丹青活手妙通神」…生き生きとした手で描かれた絵画は神に通ずる
若冲がどれだけ喜んだかは、後にこの言葉を印章にして、『動植綵絵』ほか自身が傑作とした4つの作品に捺印したことからもわかります。
*糺の森
所在地:京都市左京区下鴨泉川町59-2-15
アクセス:京阪電車「出町柳」駅より徒歩約10分
若冲が晩年に過ごした石峰寺

幕末「天明の大火」で家を消失した若冲は、大阪などを転々としたのち、伏見区深草にある「石峰寺」に隠棲します。石峯寺では観音堂に天井画『季花卉図』のほか、境内にある『五百羅漢像』の下絵を描き、石工に造らせました。
若冲が下絵を描いた五百羅漢像

この五百羅漢像があるエリアは現在撮影禁止なのですが、まるで異空間のような世界が広がっているので、ぜひ実際に目で確かめていただきたい場所です。晩年の若冲の境地なのでしょうか、どの石像も、よく見るとどこかユーモラスな表情をしていました。
それにしても、なぜこのとき、若冲は絵画ではなく石仏を選んだのでしょう。石は風化しやすいため、無常の世界を表現する手段だったという説もありますが、本当のところはわかりません。
境内にある若冲の墓

石峰寺は黄檗宗の寺院で、若冲は晩年、黄檗宗に帰依していました。若冲の墓は相国寺とここ、石峰寺の境内にあります。

深草の町が一望できる、見晴らしのよい場所です。
若冲の伏見人形への想い

伏見人形は、かつて稲荷山の土で作られた土人形で、江戸時代初期には伏見稲荷大社の参道で売られていたそう。現在は唯一「丹嘉」という窯元が継承している郷土玩具です。
若冲は伏見人形を好んで描いていました。こちらも若冲が描いた伏見人形図の一つです。

とくに有名なのが、『伏見人形七布袋図』。これは「天明伏見騒動」と呼ばれる事件に関係して描かれたといわれています。
役人の不正を江戸へ直訴しようとした7人の町衆「伏見義民」が、誰一人生きて帰らなかったという事件で、錦市場の存続に奔走した若冲自身と、伏見の町衆を重ねていたのではという説があります。
ユーモラスに見える伏見人形の絵も、伏見義民のエピソードを知ると見方が変わります。若冲はこの、ほのぼのとした絵をどのような想いで描いていたのでしょうね。
細見美術館には若冲カフェも

若冲の作品を見るなら、相国寺が所蔵する作品が展示される「相国寺承天閣美術館」のほか、左京区岡崎にある「細見美術館」もおすすめ。
「細見美術館」は、実業家で日本美術コレクターの細見古香庵をはじめとする、細見家三代の所蔵品を展示する美術館です。若冲の作品も多く所蔵し、最近では館内のカフェがリニューアルされて、若冲カフェでもできました。
若冲の絵画を堪能し、若冲にちなんだスイーツを楽しめる、若冲ファンにはたまらない美術館です。
↓細見美術館については、こちらもぜひご覧ください
細見コレクション 若冲と江戸絵画|細見美術館で伊藤若冲の作品を堪能(京まちあるき)
「伊藤若冲と京都」まとめ

生まれ育った錦市場を危機から救った若冲。亡くなってからもその作品で、相国寺の存続に貢献したというのは、今回若冲のことを調べているなかでも、とくに印象的なエピソードでした。「その働きは尽きることがない」という意味を含んだ、若冲の号の通りになっていますね。
ブームとなった当初は、絵画オタクのように見られていたという若冲ですが、知れば知るほど豊かな人間性が見えてきます。
若冲の人物像とゆかりの地をめぐれば、ますます若冲の作品も輝いて見えるに違いありません。本記事を参考に、ぜひ伊藤若冲をテーマにして京都をめぐってみてください。
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