浅井三姉妹の末娘として知られる『お江(崇源院)』。徳川幕府2代将軍秀忠の正室であり、3代将軍家光の実母、しかも徳川将軍御台所(正室)で将軍生母はお江だけです。
夫の秀忠が側室を持たなかったことから『嫉妬深い』などと噂されながらも、江戸幕府の基盤安定に貢献しました。
徳川家に嫁ぐまで、お江は実父・実母・継父を戦乱で亡くし豊臣秀吉の保護下に置かれます。そのため、豊臣家の『政略の駒』として3度の政略結婚を強いられる波乱万丈の人生を送りました。
苦難の道を歩むお江ですが、人生後半で素晴らしい懐刀に巡り合います。
♦♦この記事で訪れたお江(崇源院)ゆかりのスポット♦♦
- 豊臣秀勝邸跡伝承地
- 養源院
- 二条城
- 金戒光明寺

はし ともえ
この記事を書いた人:イギリス在住のWebライター。海外在住の経験を活かし海外での生活や子育てについて執筆するかたわら、ココナラやnoteで夫に不倫されたサレ妻の悩み相談を受付中。
お江(崇源院)とは

お江(崇源院)は1573年、浅井長政の三女として近江国の小谷城で生まれました。崇源院は死後の法名で幼名を『お江』と言います。母は織田信長の妹、戦国一の美女と称されたお市の方。
姉妹は上に長女・茶々と次女・お初。そして三女のお江を含め、後に浅井三姉妹と呼ばれます。
父母との別れ

お江が生まれてから数日後、父・浅井長政は叔父である織田信長に城を攻め落とされ自害し、浅井家は滅亡。戦国時代を代表する有力大名の出自ゆえに、お江は生まれた直後から戦乱に巻き込まれてしまいます。
父を失ったお江は母・お市の方と二人の姉(茶々・お初)と共に、叔父である織田信長の庇護を受ける事になりました。この時期、お江は安土城で過ごしていたとされています。
約10年後の1582年、本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれると、お江たちは再び居場所を失いました。新たな庇護者を必要としたお市の方は織田家の重臣・柴田勝家と再婚。お江たちは勝家の居城・北ノ庄城へと居を移すことになります。

戦乱から逃れたと思ったのもつかの間、翌1583年、信長の後継者争いによって継父・柴田勝家と羽柴秀吉が対立。賤ケ岳の戦いが勃発し、この戦いで勝家は北の庄城へ敗走します。
お市の方は秀吉に三姉妹の身柄を保護するよう書状を送った上で、城から三姉妹を逃がしました。この時、お市の方は三姉妹に「浅井と織田の血を絶やさぬように」と言い聞かせたと伝えられています。
三姉妹が脱出した後、城は包囲され勝家とお市の方は共に自害。継父・実母ともに失ったお江たちは秀吉に保護されました。
浅井三姉妹

秀吉に保護されたお江たち浅井三姉妹は大阪城に移り、以後は秀吉の『政略の駒』としての生活を余儀なくされます。
お江は1585年、織田家の家臣で尾張の大名・佐治一成と1度目の結婚。次女のお初は1587年、近江大津城主・京極高次と結婚します。長女の茶々は1588年に秀吉の側室となりました。

三姉妹は本人の意思など全く忖度されない政略結婚を強いられます。なかでもお江はわずか2年後の1587年、秀吉の命令により一成と離縁。理由は、一成が対立している徳川家康との結びつきを強め、秀吉の不興を買ったからです。
さらにお江は豊臣秀勝と2度目の政略結婚。今度はこれといった問題もなく、秀勝との間に初めての我が子・完子(さだこ)を出産します。ところが幸せもつかの間、秀勝との結婚生活も2年で終わりを迎えました。
1592年、秀勝が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に赴き、滞在していた巨済島で病死してしまったためです。
そして1595年、お江は徳川秀忠と3度目の政略結婚。その際、完子は秀吉の命令で茶々に猶子として引き取られ養育されました。
勝ち馬・徳川家へ

秀吉に利用され続け憤懣やるかたないお江ですが、徳川家に嫁いだことで勝ち馬に乗ることになります。
徳川秀忠と結婚してから3年後の1598年に秀吉が死去すると、豊臣家の内部で対立が浮き彫りになり『関ヶ原の戦い』が勃発。徳川家康が勝利を収めると徳川家は勢力を一気に拡大します。
1603年、ついに江戸幕府開府。さらにお祝い事は続き、1604年、お江と秀忠の間に長男・竹千代(後の家光)が誕生します。1605年には家康から征夷大将軍を譲られる形で夫・秀忠が徳川幕府2代将軍となりました。

はし ともえ
関ヶ原の戦い以降、徳川家では目出度い事づくし!特にお江が後の3代将軍家光を出産したことは、徳川幕府の基盤安定に大きく貢献したことになります。
将軍の母

その後もお江は秀忠との間に2男5女・計7人の子を設けました。上流武家では実母ではなく乳母が幼少期を育てるのが通例で、徳川を背負う第1子・竹千代は乳母の春日局に育てられることになります。
初めての我が子・完子を秀吉によって奪われ、竹千代も自らの手で育てられない状況からか、お江の愛情は第2子・国松に強く向かいました。周囲には「国松が世継ぎになるのでは?」という噂が立つほど。
それが竹千代の幼心を傷つける結果になってしまったようです。竹千代の傷心に気が付いた乳母・春日局は駿府城の大御所・家康に「竹千代を世継ぎに!」という嘆願をしました。
家康は、家督相続が原因で再び戦乱の世になることを避けるため、『長幼の序』(長子優先)を秀忠・お江を含め周囲に徹底します。
以降はお江も春日局と連携して家光の成長を見守り、秀忠と共に『大奥法度』を発布するなど大奥の組織化に協力しました。

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春日局という最強の理解者を得たことで、お江は世継ぎ問題の苦悩から解放されたのではないでしょうか?
大阪の陣

1614年、お江にとって衝撃的なことが起こります。『方広寺鐘銘事件』に端を発した『大坂冬の陣』が勃発。お江の姉・淀殿(茶々)と夫・秀忠が対立し、戦国時代最後の戦いが始まりました。
約一か月の籠城戦の末、徳川の調略による寝返りや食料・弾薬不足で戦意喪失の豊臣家と、早期収束を望む徳川家の間で和睦交渉が行われます。
その結果、人質を出すこと、大阪城の内堀を埋めること、などの厳しい条件を豊臣家が呑むことで冬の陣は一旦収束しました。

しかし翌1615年、再び戦端が開かれ『大坂夏の陣』が始まります。
城の内堀を埋められたことで『もはや勝ち目無し』と逃亡する浪人が多く、豊臣家の兵力は大きく減少し7万8千、対する徳川家は15万5千。
真田幸村ら『五人衆』の奮戦も虚しく、大坂夏の陣は徳川家が勝利し豊臣家は滅亡。この戦いを以て戦国時代は終焉を迎えます。
大坂の陣の間、お江の姉・淀殿と豊臣秀頼に嫁いだお江の娘・千姫は大阪城内にいました。お江としてはどちらも救いたかったはずですが、淀殿は秀頼と自害。千姫は家康の命により救出されました。
崇源院

1626年、徳川幕府の基盤安定に貢献したお江は、江戸城西の丸で死去。後に『崇源院』の法号と従一位を与えられました。
また、後にも先にも徳川将軍御台所で将軍生母になったのはお江のみで、その血脈は現在の皇室までつながっています。
お江(崇源院)にまつわる京都のスポット
お江2人目の夫ゆかり『豊臣秀勝邸跡伝承地』
かつての聚楽第武家地の一角に、お江の2人目の夫・豊臣秀勝の邸宅があったと伝えられている豊臣秀勝邸跡伝承地があります。
現在は石碑と解説板が建つばかりですが、かつては平安宮の大内裏の一部で、秀吉の時代には聚楽第建築に伴い全国の大名屋敷が立ち並んでいました。
*豊臣秀勝邸跡伝承地
所在地:京都市上京区弁天町309-5
アクセス:京都市バス「千本出水」停留所より徒歩3分
浅井家と徳川家の菩提寺『養源院』

養源院は京都七条三十三間堂の向かい側にある小さな寺院で、お江の姉・淀殿が浅井長政の供養のために秀吉に創建させた浅井家の菩提寺。寺名は浅井長政の院号『養源院天英宋清』からとられたものです。
1616年、お江によって大坂の陣で自害した淀殿とその息子・豊臣秀頼の菩提が弔われました。
1619年、落雷により焼失しましたが、お江が再建。以後、徳川家の菩提所にもなりました。そのため、2代将軍秀忠から14代将軍家茂までの位牌が安置されています。

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また、養源院でしかお江の肖像画を見ることはできません。京都にお越しの際は是非、お立ち寄りください。
*養源院
所在地:京都市東山区三十三間堂廻り656
アクセス:京阪電車「七条」駅より徒歩約10分
二条城

正式名称は『元離宮二条城』。徳川家康が江戸城の分身の役割と上洛時の居城として1601年に築城しました。
明治維新により皇室の『二条離宮』へ変遷。その後、1939年京都市に恩賜され、『元離宮二条城』となり現在に至ります。1994年にはユネスコの世界遺産に登録されました。
1620年、お江と秀忠の五女・和子(東福門院)が後水尾天皇の中宮として入内。その際、二条城を拠点として豪華絢爛な行列で宮中に向かいました。

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徳川家の権威を示すため、公家や譜代大名を従えた華やかで盛大な行列の様子は『東福門院入内図屏風』(所蔵:徳川美術館)に描かれています。
また、1626年、3代将軍徳川家光による『寛永の大改修』が行われました。後水尾天皇行幸にむけた大幅な拡張工事で、城域を西側へ1・5倍に拡張。天皇が滞在する『行幸御殿』や中宮のための御殿なども新築されました。
このように現在では観光名所の二条城ですが、かつては徳川家の朝廷に対する権力誇示のための重要な場所だったのです。
*元離宮二条城
所在地:京都市中京区二条城町541
アクセス:京都市営地下鉄東西線「二条城前」駅より徒歩すぐ
お江を弔う『金戒光明寺』

京都市左京区黒谷町にある浄土宗の七大本山の一つ『金戒光明寺』は、通称を『くろ谷さん』と言い、古くから人々に親しまれてきました。
1175年に法然上人によって創建され、敷地には18もの塔頭寺院が立ち並ぶ大きなお寺。阿弥陀堂・山門など見どころの多い金戒光明寺ですが、こちらにはお江に縁のある供養塔が複数あります。
【お江(崇源院)の供養塔】
金戒光明寺には春日局によって建てられた、お江の供養塔があります。春日局はお江の追善として塔を建立。供養塔にはお江の遺髪が納められているそうです。
【次男忠長の供養塔】
お江と秀忠の次男・忠長は1633年、乱行のため幕命により切腹し28歳で早世。忠長の乱行・乱心に責任を感じた春日局が翌1634年、お江の供養塔の近くに忠長の供養塔を建立しました。
【三重塔(文殊塔)】

1633年、豊永堅齋によって秀忠の菩提を弔うために『三重塔(文殊塔)』が建立されました。現在、三重塔は国の重要文化財に指定されており、運慶作の本尊・文殊菩薩像は2008年に御影堂に遷座されています。

はし ともえ
また、お江の供養塔のすぐそばに春日局の供養塔があります。盟友(お江)と共に眠りたかったように見えるのは私だけでしょうか?
*金戒光明寺
所在地:京都市左京区黒谷町121
アクセス:京都市バス「岡崎道」停留所より徒歩10分
お江(崇源院)と京都まとめ
結果的に「浅井と織田の血を絶やさぬよう」という母・お市の方の遺言をお江は守り抜いたことになります。姉の茶々は別の形でその遺言を守ろうとしましたが、時代の奔流に流されてしまいました。
お江は人生で二度の落城を経験し実父の顔も知らず、かわいがってくれた伯父や継父も戦によって死別。2度の結婚をするも秀吉の意向で、せっかく得た幸せを取り上げられてしまいました。
そのため、戦や政略で人生が振り回される事に心から嫌気が差し、徳川政権の安泰を強く望んでいたはずです。

はし ともえ
だから、側室の懐妊をあてにできず、正室の自分が世継ぎを産むことで徳川政権を盤石にしようとしたのかもしれません。
不協和音はありましたが、お江と春日局が共に同じ願いを持っていることに竹千代のおかげで気づけたのは、徳川家にとって僥倖だったと言えるでしょう。
お江の強い願いと、それを引き継いだ春日局の尽力によって、『徳川260年の太平の世』が実現したと言っても過言ではありません。
