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与謝蕪村と京都|俳人が晩年に過ごした地を巡る

近世(江戸時代)

京都市左京区に、『金福寺』という福々しい名前の小さなお寺があります。松尾芭蕉や与謝蕪村にゆかりがあり、俳諧の聖地ともいわれているお寺です。

今回は、この金福寺にゆかりのある与謝蕪村が暮らした京都について、まとめてみたいと思います。

♦♦この記事で訪れた与謝蕪村ゆかりのスポット♦♦

  • 与謝蕪村宅跡
  • 粟嶋堂宗徳寺
  • 島原角屋
  • 地蔵院(椿寺)
  • 金福寺
ライター<br>まる きょうこ<br>
ライター
まる きょうこ

この記事を書いた人:まる きょうこ

京都の魅力を発信するライター。当サイト及び京都の地域メディア「京まちあるき」の運営者。20代の頃より京都を旅し続け、2016年に子連れで関東圏から京都に移住。地域の情報を多数執筆しています。

与謝蕪村と代表作

与謝蕪村は、江戸時代中期の俳人であり絵師です。出身地は大阪で、江戸で俳諧を学び尊敬する松尾芭蕉の軌跡を辿って放浪したのち、42歳で京都に定住しました。

与謝野明子と血縁関係があるのではと思う人もいるようですが、二人の間にとくに関係はありません。ただし、歌人や俳人に愛された京都府丹後の与謝地方には、それぞれにゆかりがあるようです。蕪村が与謝を名乗ったのも、与謝野を訪れてからだとか。

蕪村が俳人として注目されたのは後からで、はじめはどちらかというと水墨画などの絵師として生計を立てていました。今で言うゆるキャラではないですが、どこか気の抜けたような優しい画風が印象に残ります。

俳句では、以下のような春の句が教科書にも載っていて有名なのではないでしょうか。

「春の海 終日のたり のたりかな」

 「菜の花や 月は東に日は西に」

いずれも目の前に情景が浮かんでくるような句なのは、やはり絵師だからなのでしょう。晩年には、俳句と絵画を組み合わせた俳画と呼ばれるジャンルも確立しました。

与謝蕪村の邸宅跡

京都で妻と娘と暮らした与謝蕪村は、何度か居住地を変えており、最後に過ごしていたのは「仏光寺烏丸西へ入町」です。邸宅のあった辺りに、『与謝蕪村邸宅跡(終焉の地)』という石碑が立っています。

ここに蕪村が居住を移したのは59歳のとき。奥さんのともさんが見つけて気にいったのだとか。蕪村自身も日記に以下のように記しています。

「狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって画絹ものびのびと拡げられる心地なり」

蕪村はこの地で68歳のときに亡くなりました

「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」

門人の松村月渓が、ほかに二つの句とともに、蕪村が詠み上げた辞世の句を書き留めています。

*与謝蕪村宅跡

所在地:京都市下京区仏光寺烏丸通り西

アクセス:地下鉄烏丸線「四条」駅より徒歩約5分

与謝蕪村が娘の病気平癒を願った粟嶋堂宗徳寺

京都駅の西側には、蕪村が娘の病気平癒を願った『粟嶋堂宗徳寺』があります。女性守護や人形供養で知られているお寺です。

境内には、蕪村が参拝の際に詠んだ句の石碑が建てられていました。

「粟嶋へ はだしまいりや 春の雨」

春の雨が降る中、はだしで参拝している女性を娘と重ねて読んだ句だそうで、蕪村の優しさを感じますね。粟嶋堂自体、どこか女性的な優しい雰囲気のお寺なので、ぜひ訪れてみてください。

*粟嶋堂宗徳寺

所在地:京都市下京区三軒替地町124

アクセス:JR京都駅より徒歩約10分

公式サイト:https://awashimado.jp/

与謝蕪村が俳句を教えた島原角屋

蕪村は50代の頃、妻子を京都に残してしばらく讃岐の地へ赴き、そこでもたくさんの作品を残しました。その後は京都へ戻り、親交の深かった俳人の炭太祇が島原角屋で営む不夜庵で、宗匠として俳句を教えるようになります。

角屋の当主も俳句を好んで参加していたことから門弟が増え、『島原俳諧』と呼ばれるほどになったのだとか。

島原角屋は現在も営業している揚屋で、一般の人は『角屋もてなしの文化美術館』として見学可能です。館内には、蕪村が描いた『紅白梅図』が国の重要文化財として残されています。

*角屋もてなしの文化美術館

所在地:京都市下京区西新屋敷揚屋町32

アクセス:JR丹波口駅から徒歩7分

公式サイト:https://sumiyaho.sakura.ne.jp/

与謝蕪村の師匠が眠る地蔵院 椿寺

与謝蕪村の師匠・夜半亭巴人の墓所が京都市北区にあります。五色の花を咲かせる椿があることから椿寺とも呼ばれている地蔵院』の中です。

夜半亭巴人は蕪村が二十歳の頃に江戸で師事した師匠ですが、10年ほど京都にも住んでいたようです。蕪村は二世として夜半亭の名を継ぎ、三代目の高井几董まで続きました。

不夜庵』で教え『夜半亭』という名をもらった蕪村。辞世の句『しら梅に明る夜ばかりとなりにけり』はさまざまに解釈されていますが、俳諧の興隆を心から望んでいた蕪村の心を思うと、「夜」とは俳諧のことを指しているように思えてくるのは私だけでしょうか。

*地蔵院(椿寺)

所在地:京都市北区大将軍川端町2

アクセス:京福電鉄「北野白梅町」駅より徒歩3分

与謝蕪村が復興した芭蕉庵のある金福寺

はじめにご紹介した『金福寺』に戻ります。

金福寺の鉄舟和尚は松尾芭蕉と親しく、境内の後丘には芭蕉をもてなした『芭蕉庵』があります。鉄舟和尚の死後に荒れ果てた芭蕉庵を復興したのは、芭蕉を慕う与謝蕪村とその一門です。

耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵」

上記は、芭蕉庵を復興した際に蕪村が詠んだ句です。

耳目肺腸」とは心身を表します。「身も心も」といった意味ですね。「玉巻く芭蕉」とは、植物の芭蕉の新しい葉が巻かれた状態のことで、葉が成長してほぐれると2メートルほどにもなるのだとか。それを芭蕉庵とかけて詠んだこの句には、俳諧や芭蕉に対する熱い思いが込められています。

芭蕉庵が復興し、ここから「さあ俳諧を広めていこう」という蕪村の決意が滲み出ている、爽やかで潔い句です。

蕪村とその一門は、しばしばこの金福寺を訪れては句会を開いていたのだそう。境内には芭蕉や蕪村以外にも、高浜虚子などの句碑が建てられ、まさに俳諧の聖地だったことがわかります。

与謝蕪村は芭蕉を感じられるこの金福寺で眠りたいと望みました。その願いは叶えられ、芭蕉庵のそばには蕪村のお墓があります。金福寺はそんな、蕪村の芭蕉に対する敬愛を感じられる、温かい雰囲気のお寺です。

*金福寺

所在地:京都市左京区一乗寺才形町20

アクセス:京阪電車「一乗寺」駅より徒歩15分

与謝蕪村と京都:まとめ

この記事では、与謝蕪村が晩年に暮らした京都で、ゆかりのあるスポットを巡りました。教科書でしか知らないという人も多い与謝蕪村ですが、京都でその足跡を辿り作品に触れると、芭蕉や俳諧を心から愛した人生だったことがわかります。

どこか素朴で温かみがあり、人柄がにじみ出てくるような絵画や俳句を残した与謝蕪村。ぜひ京都で蕪村ゆかりのスポットを訪れ、その人生に触れていただけたら嬉しいです。

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